「庭」と『デカメロン』

桑木野幸司*1「不死の庭:『デカメロン』の緑陰に託された再生の希望」『パブリッシャーズ・レビュー』86、p.7、2020


ボッカッチョの『デカメロン*2を「「庭」という観点から読み解いてみる」。


一〇名の男女は十日間のあいだ、幾度か滞在場所を変えてゆく。その都度、精妙な庭園を備えた瀟洒なヴィッラ(別荘)が選ばれる。歓談はたいてい、その庭の心地よい木陰や、柔らかい芝の上で繰り広げられる。作中人物をして、もしこの世に楽園があるとしたら、それはきっとこの庭に違いない、とまで言わしめるほどの、それはうるわしく、花果泉水に満ちた悦楽の美苑であった。
緑陰で歓楽にふける貴人たち、といって思い出すのが、ピサの墓所「カンポサント」*3に描かれた壮大な《死の勝利》のフレスコ画*4だ。その一角に、亭々と茂る木々の葉叢が生む影の中で、優艶典雅に着飾った宮廷風の若き男女一〇名が、楽奏に興じながら、会話に花を咲かせている場面である。かつてこれぞ『デカメロン』の情景と解釈されたこともあったが、どうやらフレスコ画のほうがいくぶん先行するらしい。実は年代ばかりでなく、その主題にも大きな差異がみられる。このピサの貴人たちの周囲には、死体がうずたかく積み重なり、恐ろし気な鎌を持った悪魔が跋扈している。いわば、死の恐怖を束の間忘れるためのむなしい享楽であり、この人たちは次の瞬間には死すべき運命にあるのだ。
対して『デカメロン』の男女はどうだろう。毎日10話、十日で100話を規則正しく紡ぐという行為は、ペスト禍によってすさんでしまった人心と都市の秩序を回復させる試みであったし、その際どいプロットや性愛の隠喩が生み出す哄笑感は、生命力を鼓舞する賛歌でもあった。第九日の冒頭で、樫の葉の冠をいただき、可憐な花々を山と抱えて陽気に練り歩く男女の姿を指して、「この人たちとこそは不死の存在に違いない」と描写される。
庭園は単に思いの空間であるばかりでなく、時には、そこを訪れる者に不死性をも与える、救いの地となりうるのだ。それこそが、無数の死を目にしたボッカッチョが庭に託した再生の希望ではないだろうか。