外圧を内圧に転化して

木村貴「白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?」https://www.excite.co.jp/news/article/Bizjournal_mixi201902_post-14471/


倭(日本)・百済連合軍が新羅・唐朝の連合軍にほぼ全滅に近い惨敗を喫した「白村江の戦い」。後の天智天皇たる中大兄皇子らは何故そうした無謀な軍事的冒険を行なったのか。倉本一宏という学者の説の紹介;


日本史の教科書では、中大兄皇子は古くから交流のある百済を復興して朝鮮半島における倭国の勢力を挽回しようと考え、派兵を決断したと書かれている。だが、本当にそうだろうか。

 歴史学者の倉本一宏氏は、中大兄皇子が派兵に踏み切った時期は百済の遺臣たちが唐の進駐軍に対し各地で勝利を収めており、今から見れば無謀に思えても、当時の情勢としては勝つ可能性もあったと述べる(『戦争の日本古代史』)。そのうえで、派兵に別の目的があった可能性を指摘する。

 その目的とは、戦争に負けても構わないから、それを国内政治に利用することである。

 中大兄は645年の乙巳の変蘇我氏本家を滅ぼし、大化改新と呼ばれる一連の政治改革で、天皇を中心とする中央集権国家の建設に着手している。戦争に負ければ、唐や新羅倭国に攻めてくるとの危機感を煽り、国防を固めるため国内の権力を天皇に集中せよと主張しやすくなる。


倉本氏はさらに一歩進め、派兵の真の目的について大胆な説を提示する。

 中央集権国家の建設を目指す中大兄にとって、一番の障碍になっていたのは、伝統的な権益を守るため、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族だった。そうであれば、邪魔な豪族を戦争に送り込み、死なせてしまえばいい。突拍子もない考えに思えるかもしれないが、こういう考えは中国では「裁兵」といい、古来からあった。征服した国の将兵は反乱を起こしかねないので、負けてもいい戦いに投入して始末するのだ。

 事実、白村江の戦いから9年後に起こった内乱、壬申の乱では、白村江の戦いに参加した豪族の名はほとんど見られないという。

 白村江の戦いの後の668年、中大兄は正式に即位して天智天皇となり、中央集権化を急ぐ。670年には最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成され、徴税と徴兵が行いやすくなった。白村江の戦いで地方豪族の勢力が大幅に削減されたことから、中央権力がかなりの程度、地方にまで浸透していく。

 もし朝鮮半島に大軍を派兵した真の目的が、戦争に勝つことよりも、地方豪族の勢力を弱め、中央政府の権力基盤を強化することだったとすれば、そのもくろみは思惑どおりに成功した格好だ。

まあ、外圧や外憂を奇貨として、或いはそれをネタにして、国内的な粛清や締め付けを行なうというのは、古今東西、国家権力の常套手段といえるだろう。ところで、「九州王朝」説*1信者にとっては、近畿の朝廷が「九州王朝」を倒し九州を征服するための藤原不比等の陰謀ということになるのだろうか(笑)。