宇野重規 on 『民衆暴力』

宇野重規*1「仁政なき世に人々の怒りどこへ」https://book.asahi.com/article/13832255


藤野裕子 『民衆暴力』の書評。
曰く、


暴力はいけない、それは間違いない。ただ、それだけでいいのか。過去に民衆がふるった暴力を、安易に正当化するのでも、あるいは単に否定するのでもなく、まずは理解し、その上で暴力とは何かを考えようとするのが本書である。江戸の百姓一揆を助走に、新政反対一揆秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺の四つの事件について、最新の研究の知見をもとに詳細な検討が加えられる。

民衆暴力は、正当な暴力を独占する国家のあり方と表裏をなす。軍や警察を整備した近代国家はやがて自警団を組織するなど、民衆の協力を得つつ統制力を強めていく。関東大震災時の朝鮮人虐殺にしても、流言を率先して流すなど国家権力の関与は明らかである。
 日常生活で抑圧された人々が、その怒りを自らを抑圧するものでなく、むしろより弱く、自ら差別する対象を痛めつけることへと向ける悲劇を、本書は描き出す。今日、暴力はどこへ向かっているのか。考え込んでしまう。
さて、これとは全く別の文脈で発せられた内田樹氏のツィート;
そういうことなのだろうけど、「ポルポトカンボジアに生まれたらクメールルージュになる」という表現には疑問を3つくらいつけておく。クメール・ルージュというのは自由民主党とか中国共産党とかと同様に政党名でしょ。クメール・ルージュの手先となり、積極的に虐殺に加担した積極分子にはたしか呼称があった筈だけど、ちょっと思い出せない。