「不作為」と「新自由主義」(神里達博)

國枝すみれ*1「シリーズ 疫病と人間 神里達博千葉大教授」『毎日新聞』2020年9月5日


神里達博氏へのインタヴュー記事。
「日本社会全体がリスクを直視することを嫌がる傾向があると感じる」。何故日本人はリスクを取ろうとしないのか。


日本は、何もしないことが有利な社会といわれる。したことの責任より、しないことの責任が見えにくい。丸山真男が論じた「不作為の責任」問題だ*2。実態は人為的な危機でも、人々は自然災害として受け止める傾向があるのではないか。大地震でも、そもそも建物がなければ倒壊の危険はない。本来100%純粋な天災はあり得ない*3。しかし、下手をすると新型コロナも「自然災害」とみなされるようになる。
何かに挑戦したときに好ましくない結果が起きる可能性がリスク。それが起きた場合にとるのが責任だ。しかし、日本人は「役割を果たすこと」を「責任」の意味だと考える。だから「不祥事が起きたので、責任を全うすべく職務を続けます」などと、訳が分からないことを言う人が出てくる。もっとも、問題となった行為を決定する自由がなかったのに、その役職にいただけで責任をとらされる場合もある。そもそも近代社会の立脚条件であるはずの「責任の概念」が、いまだに日本には浸透していないのかもしれない。
もう一つの要因は、日本は工業化に特化した社会だったことがあるだろう。同じ製品を大量生産するためには、いわば「無難な人材」が必要。とっぴなアイデアを出す人や、他人と違った行動をとる人は和を乱す可能性もあり、むしろ不良品の発生確率を上げてしまうかもしれない。また新製品のアイデアは外国から持ってくればよかった。そういう時代は1980年代に終わっているのに、制度はあまり変わらなかった。

平成以降、この社会では足の引っ張り合いが増えた。最大の要因は経済成長が鈍化したことだろう。自分が豊かになっていれば他人が豊かになっても気にならないが、経済が縮み始めると、ゼロサムゲームと捉えがちだ。有名人に対するバッシングなどにみられるように、豊かに見える人への社会的制裁が進んだ。その推進力は「どこかにズルをして得しているやつがいないか」と目を光らす自粛警察のようなメンタリティーで、健康的なものではない。
そんな「出るくいは打たれる」均質的な社会に新自由主義が入ってきた。これは本来、リスクを取って挑戦し、成功したら大もうけ、という世界。しかし日本では成功するとしばしば妬まれ、あまり尊敬されない。中東へ取材や人道支援に行った人たちが武装集団に人質にされるという事件が起きた際には、被害者が世間に攻撃されることもあった。リスクを取った人のおかげで社会の側が得られるものもあるのに、そこに目が向かない。このあたりから日本社会では、新自由主義は成功しても褒められず、失敗したら自己責任と責められる仕組みだと間違って受け止められたのではないか。
そのうえ日本には十分なセーフティーネットがない。就職氷河期に引っかかっただけで、長いこと苦労を強いられる。やり直しできる機会や最低限の生活ができる仕組みがない新自由主義は「失敗したら終わり」ということだ。挑戦したら大損する可能性があるのなら、誰もリスクを取らなくなる。政治家も官僚も失敗しないことを重視する。それもあって、過去30年間、日本の対世界倍率(略)は落ち続け、世界経済の成長から取り残されたのではないか。

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100905/1283706558 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180327/1522172366

*2:See eg. たばかれーら「「不作為の責任」(1)」https://ameblo.jp/gallina50/entry-11937211217.html 「「不作為の責任」(2)」https://ameblo.jp/gallina50/entry-11937442162.html

*3:但し、陰謀理論な人の辞書に「天災」はない。