いきなり富山

建畠晢*1、加治屋健司「針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日」http://www.oralarthistory.org/archives/hariu_ichiro/interview_01.php


針生一郎*2へのインタヴュー。
インタヴューの冒頭で1986年の富山県立近代美術館事件*3のことがいきなり語られている;


針生:大浦信行君という作家が僕をインタヴューして、『日本心中』という映画を何年か前に撮ったことがある。大浦君は富山出身なので、1986年に富山県立近代美術館で〈富山の美術’86〉に彼の《遠近を抱えて》というコラージュの版画シリーズを展示したのちシリーズの一部作品を美術館が買いあげ、残りを作者が寄贈した。ところが会期後に富山県議会で、大浦作品は昭和天皇の肖像写真を裸体や仏像とごちゃまぜにして不快だった、天皇の肖像権やプライバシーを侵害していないかと質問が出て、全国から右翼が200人くらい富山の公園に集まって、大浦作品を追放しろ、小川正隆館長を辞めさせろと決議した。その後も地元の右翼が〈富山の美術’86〉の図録を寄贈された図書館に入りこんで、図録から大浦作品の部分を破りすてたり、知事に実害はなかったんだけど、知事室に殴り込んだりとかいろんなことをやるもんだから、富山県としては手を焼いて、大浦作品を民間の匿名の個人に払い下げ、図録残部は全部破棄することにした。僕らは匿名の個人たって小川君しかないだろと噂したが、小川君はそれで嫌気さして館長やめたんだよね。僕は、公有財産だから払い下げるには競売にかけなきゃいけない、そういうことをしないと違法だということで、地元の連中と一緒にそれを告訴する原告に加わったんですよ。中北龍太郎という大阪の弁護士が、弁護士料をいらないと言ってそれをやってくれた。で、一審の判決は、確かに公開するかどうかは美術館の裁量次第だが、〈富山の美術〉という展覧会とは別に、大浦作品を特別許可のある者に個人的に見せるのを、そこまで制限するのは行き過ぎだというので、作者に20何万かの慰謝料を払えというものだった。僕は、上告したってそれ以上良くなりはしないからそれでやめればいいと思ったんだけど、中北弁護士が、「収蔵しているものは公開するのが原則で、そこを外れたこの判決は承服しがたい」と言って、上告して最高裁までいった。最高裁の判決は、全部美術館の裁量で、慰謝料も必要ないというもので、負けたんだ。大浦君はそれが悔しくて、原告の一人だった僕が、戦争中は右翼で戦後に左翼になったというのは非常に必然性があるという立場から、『日本心中』という映画を撮ったんです。つまり右翼からも左翼からも、日本と心中するくらい日本を抱え込んじゃった針生一郎という視点で。僕は、僕をインタヴューするくらいで映画になるかなあと思っていたんだが、映像としてあまり関係ないような場面が多いんだ。例えば、日本一の彫師だそうだけど、それが若い女の背中に入れ墨を彫るという場面とか、当時百歳に近い大野一雄が踊るともなくわずかに身を揺らすそばで、息子の大野慶人が活溌に踊っている場面とか、20代と10代の男女が二組でてきて、これも全く関係ないポーの小説の一節なんだそうだけど、そういうことを二人でしゃべっている場面。さらに僕が韓国光州ビエンナーレで特別展〈芸術と人権〉のキュレーターを頼まれ、光州の市場で魚や果物を眺めたり、迷路のような光州住宅街の路地を歩いたり、韓国料理店の狭い座敷で女が踊るサムルノリ(伝統芸能の一つ)を見たりする光景もある。僕のしゃべったことを、そういう日本と韓国の様々の文化現象の中に投げ込んで、それでシルク(スクリーン)の場合と同じように、モンタージュの方法で映像として見せる。だけどそれは、大浦君の作った映像の面白さであって、僕はちょっと違うんだがというところがどうしてもある。あの映画ができて、それも第二部まで作った。第二部ははじめハンス・ハーケを引っ張り出したいって言ったんだけど、アメリカまで行くのはやっぱり金がかかるから、金芝河にしたんですよ。そのほかに重信房子の娘、重信メイさんが日本に帰って来てどこかで英語教師かなんかをしていて、それを登場させた。この重信メイがまた、全然知らなかったんだけど、僕の後にもう一回金芝河を訪ねて、金芝河も「重信さんの娘さんかあ。パレスチナでやっていた人が、僕のところへ来るなんて、何か運命的な出会いという感じがする」なんて、のっちゃってね。金芝河の家でその映画は終わるんだ。

建畠:それは二部のほうですか?

針生:そう。だから主役は金芝河重信メイであって、僕は刺身のツマみたいなものだと(笑)、試写会で言ったんだけども、まあ結構面白かった。見せる才能はあります、大浦君は。

建畠:富山問題の記者発表のときに一緒に抗議声明を発表したのを覚えています?

針生:ええ。

建畠:谷(新)さんもいたかな、美学校でやりましたね。針生さんから一緒に出てくれって電話がかかってきました。裁判のとき、針生さんはどういう立場でいらしたのですか。特別弁護人みたいな立場ですか。

針生:いや訴訟する側。要するに原告の一人なんだ。

建畠:原告側にいらした。

針生:だから原告側の最終陳述でしゃべりました。県側の弁護士が苦しまぎれの理屈でしょうが、昭和天皇毛沢東、ドゴール、スターリンチャーチルなどの「元首」と違って「象徴」なんだから、それだけ慎重な配慮で扱ってくれなきゃ困ると言った。僕はこれは敗戦直後に占領軍司令で廃止された「不敬罪」、日本人が敗戦を代償としてようやく解除を贖いとった「不敬罪」にかぎりなく近い思想で、とうてい受けいれられないと述べたんです。

あいちトリエンナーレを毎年観に行くといっている人たち*4、或いは大村秀章をリコールしろとかいきり立っている人たちはこうした〈歴史〉を知っているのだろうかと思った。