「裾野」か

浜地道雄「日本の教育・啓蒙に欠如する「本物志向」」http://www.news.janjan.jp/culture/0801/0801058429/1.php


のだめカンタービレスペシャル版について、「その皮相なおちゃらけぶり、情感の欠如、そして何よりも音楽性の欠如に愕然とした」という。また曰く、


なぜ、これを日本人大衆が受け入れるのだろうか?それは秋川某という「テノール歌手」の歌が大ヒットしたという現象に感じる違和感と同じである。その「千の風」の歌詞の感動やイケ面とは関係のない、要するにプロとは言えない「下手さ」である。「本物志向」でないのだ。そこに「(マスコミと商業主義による)与え方」「(庶民の)受け入れ方」について、危険性すら感じる。
そして、以下はレナード・バーンスタインを通して、米国における文化の「Authenticity(本物志向)」を賞賛する。浜地氏の論については論評を遠慮する。
さて、この記事には幾つかのコメントが寄せられているのだが、広岡守穂という方が「「本物」とは若い世代を挑戦にいざなう力ではないでしょうか?」と題して書いている。これ、政治学者の広岡さんですよね。曰く、

わたしはつくり手に高く深いたましいがなければならないと思うのはもちろんですが、同時に送り手である媒介組織にも高いこころざしが必要だと思います。送り手がしっかりしていないといくら作り手がしっかりしていても文化は高まらない。安藤昌益や石川啄木宮沢賢治など、重要な作品の多くは、その時代の送り手をささえる構造が脆弱だったために死後になってやっと発掘されたのでした。いくら画期的な発明がされても、それを社会化する存在がなければ発明は生きてきません。
 そしてわたしは思うのですが、音楽にしても、研究開発にしても、なんにしても、本当の最先端に挑みかかろうとする姿勢が、作り手と送り手の側に総じて弱いのではないか。とくにそれは次の世代をきびしい挑戦にいざなおうという面において弱いのではないか。
 芸術ばかりではありません。優秀な高校生が医学部以外の理科系学部への進学をのぞまなくなったといったことにも、それはあらわれています。大企業や大学が科学研究の重要性を訴えることを怠っている。
これには異存はない。ところで、「戦後、桑原武夫が「第二芸術」を書いて、俳句は一流の芸術たりえないと論じたら、それから何年かたって鶴見俊輔が「限界芸術論」を書いて、文化の裾野の問題をとりあげました」と鶴見俊輔の「限界芸術論」に言及している。これにはちょっと違和感を覚える。鶴見さんの議論は藝術の「裾野」を拡げましょうといったケチなものではないだろう。これは勿論ウィリアム・モリスが提起したlesser artということを踏まえているわけだが、「限界」(marginal)という言葉通り、藝術と非藝術の境界を問うものであり、さらに重要なのは、「限界芸術論」が作り手と受け手との社会的関係の問題として展開されていることだろう。「限界芸術」はハイ・カルチャーと大衆文化双方に対立している。どちらも受け手は受動的に作品を消費するだけということでは、社会関係においては同一である。他方、「限界芸術」においては固定的な作り手/受け手の区別はない。どちらも同じコミュニティ内の同等な参加者であると認識されている。ということで、鶴見さんの議論はその後のテクスト論における〈読者〉の復権を先取りしていたわけだ。


ところで、「のだめ」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169575048 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070130/1170131794 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070319/1174281942 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070826/1188154111で言及している。