龍馬熱再び?

2010年に「龍馬熱」というエントリーを書いていたのだった*1


「ついに橋下まで…「龍馬」を語る男がウサン臭い理由」http://news.infoseek.co.jp/article/03gendainet000163558(Cited in http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20120204/1328362682



日刊ゲンダイ』の記事ではあるが、あの橋下徹まで気分は「坂本龍馬」であるそうな。或いは「のだめ」も。それはそうとして、関修さんのコメントが引かれている。おお懐かしい*2


かつて評論家の佐高信氏は、龍馬ファンの政治家や財界人について、「自らが何者かであると錯覚している」と喝破していたが、果たしてその通りなのか。それとも龍馬への単なる憧憬にすぎないのか。明大講師の関修氏(心理学)はこう分析する。

 「坂本龍馬は志半ばで倒れた。つまり、まっとうなことは掲げたが、実践に移すことはできなかった。掲げた構想を実践するにはマイナス面も伴うのが、本来の政治家の姿です。仮に龍馬が生き永らえていれば、後世の評価も変わったでしょう。『結果』がなく、後世に伝えられているのは『志』の部分だけ。だから、龍馬は改革者のイメージが強い。いわゆる“改革派”を気取りたい人にとっては都合のいい理想像なのです」

まあそういうことなのだろう。これについては、20世紀は中二病の時代だというエリック・ホッファーの議論も参照すべきなのかも知れない(『現代という時代の気質』第1章「未成年の時代」)*3 。また冒頭で言及した拙エントリーでは、

まあ一般的にいうと、あらゆる革命は〈裏切られた革命〉であるといえる。革命は常に〈こんな筈じゃなかった!〉と形容される。粛清や腐敗や妥協等々。仏蘭西革命も露西亜革命も辛亥革命キューバ革命も例外ではない。「大衆も知識人も政治家も財界人も左翼も右翼も〈革命〉が好きなのだ」ということはある*4。ここでいう「〈革命〉」とは具体的に言えば「明治維新」。勿論、「明治維新」が他の殆ど全ての「革命」と同様に〈裏切られた革命〉だったということはみんな感じているだろう。とすれば、体制側・支配者側に移行して大出世した人たちにアイデンティファイするわけにはいかない。とすれば、アイデンティフィケーションの対象は限られてくる。旧体制が打倒されて、「革命」が新たな体制として安定を得る以前に(必ずしも粛清によるわけではないが)命を終えた人々ということになる。打倒以前だと、例えば吉田松陰、それから高杉晋作。打倒以後でいうと、坂本龍馬、それから西郷隆盛などということになる。勿論人格的な資質の問題もあるのだろうけど、その当の〈人格〉というのがアイデンティフィケーションを前提として、様々なメディア(小説、歌、映像等々)を通じた語りや表象によって構築されたものだったりする。だから、坂本龍馬が人気があるというのは当然といえば当然だといえるだろう。〈裏切られた革命〉以前なのだから。
と書いている。
現代という時代の気質 (晶文選書)

現代という時代の気質 (晶文選書)

ところで、小沢一郎坂本龍馬については、既に小沢信者の顧問的存在である平野貞夫がこの2人が「妙見菩薩」を介して繋がっていると説法している*5。因みに、小泉純一郎司馬遼太郎への追悼文で「反目していた薩摩と長州が組んで薩長連合が倒幕に踏み切るのは、自社さ連合政権に似ているし、大改革必要としている時代だということも[「幕末、維新の時代」と]同じである」と言っているよ(桂英史『司馬遼太郎をなぜ読むか』、p.35から孫引き)。
司馬遼太郎をなぜ読むか

司馬遼太郎をなぜ読むか