「単独者」と「共同体」(柄谷行人)

柄谷行人、小嵐九八郎『柄谷行人政治を語る』*1から。
柄谷氏の語り;


単独者というのは、共同体に背を向けて内部に閉じこもった個人という意味ではないですよ。しかし、そのように受けとられたように思います。文学にはそういうイメージがあるのです。それは必ずしも悪いことではないですよ。共同体のなかにべったりと生きている個人は、単独者ではありえないから、共同体から一度離れた個人でなければ、他社と連帯できない。だから、そのような孤立の面を強調する傾向があったと思います。
ただ、そういう考え方がだんだん通用しなくなった。それに気づいたのは、一九九〇年代ですね。というのは、この時期に、それまであったさまざまな共同体、中間団体のようなものが一斉に解体されるか、牙を抜かれてしまったからです。総評から、創価学会部落解放同盟にいたるまで、企業ももはや終身雇用の共同体ではなくなった。共同体は、各所で消滅していた。
では、個人はどうなったのか。共同体の消滅とともに、共同体に対して自立するような個人もいなくなる。まったく私的であるか、アトム(原子)化した個人だけが残った。こういう個人は、公共的な場には出てこない。もちろん、彼らは選挙に投票するでしょうし、2チャンネル*2に意見を書き込むでしょう。しかし、たとえば、街頭のデモで意見を表明するようなことはしない。欧米だけでなく、隣の韓国でも、デモは多い。日本にはありません。イラク戦争のときでも、沖縄をのぞいて、デモがほとんどなかった。
そこで、いろいろ考えたのですが、個人というものは、一定の集団の中で形成されるのだ、という。ある意味では当たり前の事柄に想到したのです。(後略)(pp.144-146)