秦は漢にあらず?

山本和幸「中国南部に支那があった」https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12310718081.html


「中国南部」*1に「支那」を含む地名があるという。雲南省盈江県の「支那村」、雲南省楚雄市の「支那村」、四川省甘孜県の「支那拉」。因みに、甘孜はチベット人の領土。


実は、古代の秦の名前は後代の漢が名付けた漢民族式のものであり、秦は自らを支那と読み書きしたのである。秦が滅び、漢民族が膨張して外に押し出された秦の民と一緒に支那の国名と言うか、支那の地名が押し出され、現代の中国南部に名残が留まったのである。

すなわち、漢民族自らの呼称は華夏であり、現在では中華と呼んでおり、支那や震旦と自称していない。日本では、遅くとも奈良時代には中国大陸を支那とか震旦と呼んでいた。

これはかなり秦ぷん漢ぷん。まあ、この山本という方は「ネアンデルタール人は超古代日本語を喋っていた!」*2とか言っているような人なので、あまり真面目に相手にしない方がいいのかもしれない。
実は「支那」の起源については2008年に取り上げていているのだった;

http://bbs.togj.com/index-20043.html


中国の英語名Chinaは梵語のCinaに遡るとされている。支那として再度漢字化されたこの言葉は秦に由来するというのが私の知識であったが、古代の漢語ではなく、古代の苗語に由来するという説があるという。それによると、現代の苗語に「吉那」または「子臘」と音訳される言葉があり、これは「支那」と「同音」で、「水稲之郷」を意味するという。また、別の説ではCinaは「粳」の音訳ではないかといわれる。これだと、中国南方の稲作民族が「粳」と自称していて、それが交易関係があった印度のアッサム地方に伝わったということなのだが、本当に自称していたのかどうかということに関しては、この説を唱えているという林河という方の論文とかを読まなくては何ともいえない。ただ、状況証拠としては、確か稲の野生種は印度東部で発見された筈だし、古代から現代(革命直前まで)雲南と印度との緬甸やチベットを経由しての交易が行われていたということはある。これらの説を採るとすれば、Cinaというのは中原の漢族ではなく、南方の民族をそもそも指していたということになる。
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080118/1200676516