二人称と一人称

松尾貴史*1「「自分」「手前」は一人称? 二人称?」『毎日新聞』2019年10月20日


関西では二人称として「自分」という言葉が使われることが多いという。


(前略)「古事記」にも「日本書紀」にも、「おれ」「われ」という言葉が二人称として使用されているそうだが、「われ」に関しては今でも少々荒っぽい関西弁として「われ、何を考えとんじゃ!」などと使われている。
江戸風の物言いの中にも、相手のことを「手前」と言うことがある。この場合は江戸なまりで「てめえ」という発音になるけれど、このなまりは自分を指す「手前」でも起きていたはずなので、「てめえ」との意味の変化とは、もともと関係はなかっただろう。「手前」自体は自分を指す言葉であり、「手前ども」となれば「私ども」という意味になる。
私の想像だが、例えば日常で、「自分でやれ」を「手前でやれ」、「自分で分かっているのか」を「手前で分かっているのか」という言い方だったのが、自然と両方の意味につながっていたのではないだろうか。
(略)
(略)ケンカ口調で相手のことを「おのれ、なんぼのもんじゃい!」などと言うが、やはり「おのれ」は「己」であり、それが転化した「おんどれ」も同じ意味だろう。他地域でも、古くは二人称で「おのれ」を使っていたはずだ。
子供に対して、「君」「坊ちゃん」と話しかけるときも、「僕、お名前は?」と一人称を流用する。こういう例は海外にはないのだろうか。日本独自の文化だとすれば、コミュニティーの中で同化することを尊んだのか、それとも関係性の距離感の近さゆえにそうなっていったのだろうか。明治維新で欧米の価値観が導入されたとき、合理性を重んじるがあまり、共通語からそういう使用法が排除されたのではないか。
ところで、

自分のことを「自分」と言う人は、「自分は○○であります!」と言う感じの折り目正しさがあって、何となく兵隊や自衛官、警察官のイメージだが、これは映画やテレビドラマの影響でそう感じるのかもしれない。
ということだけど、一人称代名詞としての「自分」というのはそもそもが軍隊方言でしょう。吉原の花魁言葉と同様に、それによって軍隊を娑婆(市民社会)から差異化し、兵隊を娑婆から隔離する。共産党語のとしての「同志」とかも同じような機能を有している。
また、「米大統領」を「ホワイトハウス」と言ったり、「ローマ法王」のことを「バチカン」といったりすることはないと思う。「ホワイトハウス」というのは換喩的な表現だけど、それが表すのは、大統領個人ではなく「大統領」が代表するところの米国政府、或いは議会などと対立する意味での政権ということだろう。
英語でもyouを自分のことを表すために使うことはある。例えば、スザンヌ・ヴェガの「ルカ」;

They only hit until you cry
After that you don’t ask why
You just don’t argue anymore
You just don’t argue anymore
You just don’t argue anymore
ここで使われているyouは話し相手とか聴衆とかを指しているのではなく、語り手(「ルカ」)自身を表している*2
Solitude Standing

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Vol. 2-Close Up: People & Places

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ところで、「儂」は日本語では一人称、中国語(上海語)では二人称。