柴崎友香『春の庭』

柴崎友香*1『春の庭』を今月初めに読了した。


春の庭

見えない
出かける準備


解説(堀江敏幸

芥川賞受賞作である「春の庭」は150頁に及ぶ中篇(novela)であり、「糸」以下の3篇は文庫化に際してボーナス・トラックとして加えられたものである。
「春の庭」とは主要な登場人物たちが住むアパートの裏の家の庭であるとともに、その家のかなり昔の住人が撮影した、その家の写真集のタイトルでもある。経験の間接性。また、或る経験を可能にするところの媒介物(medium)。この中篇小説の後半に至るまで、登場人物たちはすぐ近くにあるリアル「春の庭」にアプローチすることはできない。しかし、写真集『春の庭』を通して裏の家の細部まで熟知している。また、アパートに住む「太郎」と「西」*2は写真集『春の庭』とリアル「春の庭」への関心を共有することによって親密になる。つまり、ふたりの関係を存立させている媒介物(medium)なのである。また、興味深いことに、ふたりがリアル「春の庭」へ現実的に(really)足を踏み入れたことは、物語(小説)を終わりへと加速させる契機ともなった。
さて、「春の庭」は基本的には三人称で「太郎」の視点から書かれている。しかし、後半になって、突然「わたし」という一人称が(三人称の「太郎」を押しのけるように)登場する。「わたしが太郎の部屋を訪れたのは、二月に入ってからだった」(p.130)。「わたし」の正体は「太郎」の「姉」。「わたし」は暫く物語を語った後、

わたしが歯を埋める場所を探しに外に出た六時間後、太郎は、ベランダの手すりを乗り越えて立ち入り禁止の中庭に降りた。ようやく風も収まったようだ。部屋の明かりは消して出てきたので、暗い中で目を凝らし、隅に置いてあったコンクリートブロックを重ねて足場にした。必要な物を詰めてきた布袋の持ち手を片方ずつ両肩に掛けて背負っていた。ブロック塀に足を掛けたところで振り返ると、二階の左から二番目の窓だけ、明かりがついていた。昼間、二週間ぶりに巳さんに会った。前に太郎が渡した招待券で美術展に行ったら十万人目の来場者で記念品をもらったとよろこんでいた。太郎もうれしかった。巳さんはこんな時間に起きているのだろうか。太郎とは逆に、明かりをつけていないと眠れないのかもしれなかった。(pp.145-146)
と、パラグラフの途中で消えてしまっている。これ以降は、(以前と同じように)三人称の「太郎」によって語られる。まるで、語る権利をいきなり奪ったものの直ぐに飽きてしまい、抛り投げてしまったのかのよう。読み終わってかなり経つのに、「わたし」が唐突に登場し、唐突に退場したショックは消えていないのだった。
「糸」「見えない」「出かける準備」の3篇も、小説を読んだなという充実を感じさせるものがよりコンパクトに凝縮されている。