
- 作者: 落合淳思
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/01/23
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (11件) を見る
Νᴀʀɪᴛᴀ Κᴇɴᴛᴀʀō@10ti3pin
落合淳思『殷』読了。殷の祭祀は自然神・祖先神をひろく対象としつつ最高神として帝を崇拝したこと、しかし後期には自然神を祖先神の体系中にとりこみ、また帝への崇拝がかげをひそめたことが了解できた。さらにこのような変化を「集権化」の一環と解するようだが、この点については賛否を留保したい。
Translate Tweet
4:06 PM · Jul 28, 2019·Twitter Web App
https://twitter.com/10ti3pin/status/1155389071293681665
Νᴀʀɪᴛᴀ Κᴇɴᴛᴀʀō@10ti3pin
Replying to @10ti3pin and @satoshin257
著者は「祭政一致」は合理的、信仰を「利用」したのだととくが、信仰がいかにして利用可能な程度までうけいれられたかは説明しない(著者の守備範囲ではないということなのだろう)。殷周革命についても、周は「天」への信仰を利用したととくが、当時「天」にそれだけ説得力があったことの傍証はない。
Translate Tweet
4:29 PM · Jul 28, 2019·Twitter Web App
https://twitter.com/10ti3pin/status/1155394796640321537
落合氏の説明に感じた私の疑問は先ず成田氏が「為政者が既存の信仰を合理的に利用するという面を強調している」と要約しているところに関係している。殷代の「為政者」が(人民の)「信仰を合理的に利用」したという場合、「為政者」の主観的真理に言及せざるを得ないだろう。その主観的真理に根拠はあるのだろうか。そう言ってしまうためには、殷代の「為政者」の主観性を思い切って近代化してしまわなくてはならないだろう。近現代人である私たちが「信仰を合理的に利用」するように(例えばイデオロギー的利用)彼らも「利用」していたとして、そこから類推するように、「信仰を合理的に利用する」古代人の主観性を構築すること。このことに正当性があるようには思えない。
Νᴀʀɪᴛᴀ Κᴇɴᴛᴀʀō@10ti3pin
要するにこの本では、為政者が既存の信仰を合理的に利用するという面を強調しているわけだが、政治的権威によって信仰が増大し、そうして増大した信仰を政治がまた利用するという(為政者にとっての)好循環はあるだろうし、従来の「祭政一致」もそういうことをふくむ謂いではなかったのだろうか。
Translate Tweet
4:51 PM · Jul 28, 2019·Twitter Web App
https://twitter.com/10ti3pin/status/1155400381565849600
道具主義的な説明は、道具として「利用」する利用者の主観的真理を構築せざるを得ない。それと一見類似しているように見えるかも知れない説明に機能主義的説明がある。機能主義的説明では「為政者」の主観的真理を構築する必要はない。或る「信仰」は王権による支配の維持や強化に貢献していたという説明において、「信仰を合理的に利用」する「為政者」の主観的真理は問われない。問われるのは、落合氏或いは成田氏或いは私といった観察者によって、「信仰」が支配の維持や強化に貢献しているというように見えてしまったこと、そしてその根拠である。