「制作には細部はない」

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

ポール・ヴァレリー「エウパリノス」*1からのメモ。

パイドロス」によれば、建築家「エウパリノス」は「制作には細部はない」ということを何時も言っていたという(p.15)。それに対して、「ソクラテス」は「わかるような、わからぬような。何かがわかるが、それが彼の真意かどうか確信がもてない」という(ibid.)。
ソクラテス」の解釈;


おお、パイドロス、きみはかならずや気がついたことがあるはずだ。政治に関することであれ、市民の個人的利害に関することであれ、もっとも重要な論議のなかで、ありはぎりぎりに切迫した状況で愛するひとに言わねばならぬ微妙な言葉のなかで、――そう、きみはたしかに気がついたはずだ。そういう言葉にはさまるごくささやかな言葉にはさまれるごくささやかな言葉やこの上なくわずかな沈黙が、どれほどの重みをもち、どれほどの影響力を産み出すものかということを、相手を説得しようという飽くなき欲求とともに、あれほどしゃべりまくったこのわたしにしても、とどのつまりはこう納得したのだ。この上なく重大な論議も、どれほど巧みに導かれた論証も、一見無意味なこうした細部の助けを借りなければ、ほとんど効果がないということを。また逆に、凡庸な理屈でも、機転のきいた言葉や王冠のように金色に塗られた言葉のなかにちょうどうまい具合に吊りさげてあれば、長いあいだ耳を言葉というこの遣り手婆さんたちは、精神の戸口に待ちかまえて、好き勝手なことを精神に繰り返し、何度も好きなことだけ話しかけ、あげくのはては精神に、自分自身の声を聞いているのだと信じこませてしまう。ある論議の実体とは結局のところ、こういう歌であり、声のもつこの色合いに他ならないのに、それをわたしたちは誤って細部だとか偶然の産物だとかと扱っている。(pp.16-17)

また、医学のことを考えてみたまえ。世界一巧みな手術医が、その器用な指先をきみの傷口にさしこむとき、この医者の手がどれほど巧妙で、いかに熟練をつみ、先の先まで読めていようとも、さらにまた、器官や血管の配置、その相互関係や深さについて、この医者がどれほど自信があり、また、きみの生身の肉体のなかで、何かを切り取り、何かをつないでなしとげようともくろんでいる行為について、彼がどれほど確信を抱いていようと、たまたま彼の注意の行き届かなかった何らかの事情のため、彼の用いた一本の糸、一本の針など、手術上彼に必要なごく些細なものが、充分に清潔でなかったとか、完全に消毒されていなかったとしたら、きみは死んでしまう……(pp.17-18)