「最小限住宅」

大竹昭子須賀敦子の旅路』*1から抜書き。
ミラノの「オヴィディオ広場」附近。


(前略)飛行機の部品の製造工場があった場所に、戦後、公営住宅*2が建てられたのである。複数のベッドルームがあり、浴室付きで、エレベーターも備わっているという触れ込みで造られたそれは、明るい未来の象徴だったが、時代が下るにつれてその輝きは薄れていったようである。「不運」(『コルシア書店の仲間たち』*3)に小さな盗みを繰り返しては警察にあげられているガストーネというドジな泥棒がでてくる。不安定な身分なのに所帯持ちで子供が三人いる。その彼がインフルエンザになってこの一週間稼げず困っているという連絡があり、須賀は入ったばかりの翻訳料をもって見舞いに訪ねていったことが「日記」(1971年3月22日。(略))に書かれているが、そのガストーネの一家が暮らしていたのが市内のカーザ・ポポラーレだった。ドアを開けるとぷうんと貧しさの匂いがし、カーザ・ミニマ(最小限住宅)くらいに生活レベルが落ちているのを実感し、暗澹たる気持ちになるのだった。
十九世紀末に百世帯以上を収容する初の庶民用共同住宅、「手すりのある家」が市内の各所に建てられ、ファシズム期にはそれにダイニングキッチン、寝室、浴槽付きトイレなど最小限のものを加えたカーザ・ミニマが造られ、戦後にさらにそれが改良されてエレベーター付きで浴室も広いカーザ・ポポラーレが出来た。とはいえ決して生活が楽になったわけではなく、暮らしの内実はカーザ・ミニマと同じであるのを、この日、小さな部屋に親子五人が暮らしているのを見て須賀は痛感したのだった。「社会階級をなくすことは本当に可能なのか。階級的偏見をなくす事は可能なのか」「Emmausがこれらの人たちを自由に生かせてあげるのでなければうそだ。ほどこしの精神をやめること」などの言葉がつづく。Emmausとは、日本に帰国後に須賀が深く関わるエマウス運動のことだが、当時の須賀にとって、少しでも平等な社会を実現するためになにをすべきかは切実な問題だったのだろう。(pp.100-102)
コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)

かつて日本人の住宅を「ウサギ小屋」と罵ったのは仏蘭西人だったか伊太利人だったか。