ドン・デリーロ*1『ボディ・アーティスト』から引用。
彼女は大豆粉をボウルに入れた。大豆の匂いは体臭とどことなく似ている。そう、足の匂いと、種子を深く宿した大地の正当な生命の匂いとの中間。だが、それではこれを表現したことにならない。彼女は新聞の記事を読んだ。人里離れた場所に捨てられた子供に関する記事。何もそれを表現できない。それは純粋な匂いだ。あらゆる視線から切り離され、匂いとしか言いようのないもの。まるで――そして彼女は次のような趣旨のことを言おうとし、言えば彼を面白がらせるとわかってはいたのだが、言うのをやめた――まるで、おそらくは中世の神学者がすべての既知の匂いを分類しようとし、ひとつだけ自分の体質にうまく合わないものを見つけ、それを大豆(soya)と呼んだかのようだった。ソーヤとは高尚なラテン語にいかにもありそうな言葉だ。が、そんなはずはない。彼女は座ったまま何かを考えていて、それが何かは自分でもわからず、スプーンを口から一センチほどのところに止めていた。
彼は言った。「何だい?」
「何も言ってないわ」
(後略)(pp.24-25)
この小説、冒頭のパラグラフが(訳文でも)美しい。ここだけでも英語で読みたいなと思った。
時は流れているように思われる。世界は生じ、一刻一刻へ開かれていく。そしてあなたは手を止め、巣に貼りついた蜘蛛を見やる。光の機敏さ、物が正確に縁取られた感覚、湾に走る光沢の筋。こういうとき、あなたはより確かに自分が何者であるかを知る――嵐が過ぎ去った後の陽射しの強い日、ほんの小さな落ち葉さえも自意識に刺し貫かれているような日に、風は木々に当たって音を立て、世界は出現する――それを元に戻すことはできない――そして蜘蛛は巣にしがみついて風に揺られている。(p.20)