田中俊英*1「絵本のない幼児時代とは何か〜たとえば「ぐりとぐら」」https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20181018-00100928/
堀江貴文氏*2と(『ドラゴン桜』の作者である)三田紀房氏と寺田有希さん*3との座談会「読解力のないヤツが多すぎる明確な理由」*4が俎上に上げられ、難癖がつけられている。
ここで田中の文章から一旦離れて、座談会の流れを再度追うことにする。因みに、ここで語っているのは基本的には三田氏であり、堀江氏は基本的には聞き役である。だから、田中のように、「ホリエモンが」「語る」というふうに、「ホリエモン」を主語にしてしまうのはどうかなと思うのだ。
ホリエモンがいつもどおり自分を炎上させながらも、その中身は珍しく直球で語る幼児教育に関するこの記事(【堀江貴文×三田紀房】読解力のないヤツが多すぎる明確な理由)を読んで、なるほど、貧困層はこのようにして「見えなく」なるのかと思ったので、以下書いてみる。ホリエモンは、最近の子ども若者たちの「読解力」が落ちたと直撃する。その理由を座談会出席者たちとあれこれ検討し、結局は幼児時代の「絵本体験」にあるのでは、と指摘する。
読解力とは語彙力に基づく「世界」の広さそのもので、世界の広さは言葉の獲得量に比例し、それを獲得するには子ども時代よりとにかく「ことばの量」を浴び続けることにつきる。
また、それに加えて、子どもの興味関心に身近な大人(親)が辛抱強く寄り添い、興味関心をベースにしつつさらにその世界を広げる。
そうした積み重ねで、子どもの「シナプス」がつながっていき、何かの分野で才能がきらめき始める。
三田氏の発言;
これは新井紀子さんが『AIvs.教科書が読めない子どもたち』*5とかで論じているような問題でもあるだろう。三田氏は「教科書の内容が頭に入らない高校生や中学生がたくさんいるっていうのは大問題で、それはもう学校の授業として成り立たないわけですから……」とも言っている。
(前略)要するに今おっしゃった通りで、今の若年層は相当読解力は落ちてるなと。で、これは巷でもよく言われてるんですけど、教科書が読めないっていう高校生もいっぱいいるんですよ。例えば、歴史の教科書とかを読んでも、何を書いているのかが全く理解できないっていう、そんな子がすごくたくさん増えてきている。その原因を色々と探ると、大雑把に言うと読書習慣が不足していると。……まぁ、学者の先生たちはそういう結論になるんですけど。

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三田:いわゆる60年代の人、僕もそうなんだけど、その頃からアニメがテレビで流れるようになったんですね。で、さっきの「読解力の話」のちょっと種明かしになるんだけど、読解力の有無で最も大きな影響してくるのが、絵本をたくさん読んでいるか否か。それでかなり変わるんですよ。堀江:へー。そうなんだ。
寺田:それは、小さなときの……。
三田:そう。2歳から4歳ぐらいとかの……。
堀江:三田さん、今ちょうど絵本を作ってますよ。
三田:だから、それですよ。今、堀江さんがおっしゃったことは、まったくその通りで、画像と文章の2つを一緒に取り込能力をトレーニングするには、やっぱり絵本が一番いいんですよ。
堀江:なるほど。確かにそうだ。
三田:これは僕の勝手な想像と解釈でお話しさせていただいいてるんですけど、やっぱり読解力がどんどん落ちてきているなぁっていうことで、何が原因かなぁって考えると、恐らく2歳とか3歳とかの段階でアニメの動画をテレビで見せてしまうと。テレビの画面って文章が出てこないので、文字読解力みたいなのが身に付かないのはそこなんじゃないかなと思うんですけど。
寺田:今は絵本じゃなくて、スマホを渡す親も多いですしね。
堀江:いや、今は1960年代の話をしてるから、スマホは違うでしょ。
三田:基本的なことなんですけどね。子どもに適したテキストをきっちり与えるということが、ちゃんとできてたかどうか。それが読解力不足の人間が増えている、大きな要素になるんじゃないかと。
堀江:絵本は読んでた?
寺田:読んでましたよ。通っていた幼稚園に絵本がたくさんあったので。
堀江:だから読解力がいいんだね。
寺田:すごくニヤついた顔で言ってきて、今、全然信じられなかった。……でも私は絵本、結構読んでましたよ。
三田氏の「アニメ」バッシングに対する賛否は留保しておく(多分、違うんじゃないかと思う)。
寺田:堀江さんは読んでますか?堀江:俺は読んでたね。自分で読んでた。
寺田:自分で?
堀江:レコード絵本っていうのがあって……。
寺田:何ですか、それは?
堀江:朗読とかも付いてるヤツ。……絵本って、お母さんとかが読んでくれるものじゃないですか。
三田:いわゆる読み聞かせってヤツですね。
堀江:そう。でも、ウチは共働きだったから、絵本を読んでくれないわけよ。だから、レコードで……。
三田:昔ありましたよね、ソノシート付きとか。
堀江:僕の持ってたのはソノシートじゃなくて、ちゃんとしたレコードが付いてるヤツで、それが親の代わり。
寺田:え、それは絵本にレコードが付いてるんですか。へー、面白い。
田中のテクストに戻る;
確かに、絵本は幼児にとっては最強の世界観拡大ツールだ。ときに規範的なものもあるが、たとえば「ぐりとぐら」シリーズなどは多くのことを示唆しており、メタファーに満ちている(ぐりとぐら)*7。ぐりとぐらがカステラを協力してつくり、森の友だちたちが喜んでほおばる、そのシーンを繰り返し読んでいくだけで、幼児の世界は広がっていくだろう。
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だが、ホリエモンたちには、「絵本のない世界」にまで言及してほしかった。絵本=絵とことばという抽象世界を享受するには、ことばと絵が一体となったメタファーが炸裂する絵本のページたちを楽しむ余裕や慣れが必要だ。
その慣れは、その絵本を読む親自身が、そうした抽象世界に慣れておく必要がある。
ぐりとぐらが大きすぎるタマゴを発見し、それをカステラにしようと話し合う。
そのシーンについて、あるいは巨大なタマゴについて、カステラという食べ物について、それら抽象性と文学性を自然に受け入れ、それらの絵と言葉を親自身が楽しみ、自分の子どもたちに伝えていく余裕をもつ必要がある。
その余裕は、残酷ではあるが、「経済的余裕」とパラレルである。
日々の生活はおカネで困っていないからこそ、ぐりとぐらのメタファーを楽しむことができる。そしてその享受感を、自分の子どもである幼児と分かち合うことができる。
だが、たとえばぐりとぐらのなかった幼児期を過ごした親は、ぐりとぐらが子どもに与える効果が理解できない。
その、巨大タマゴのすごさ、カステラのすごさ、森の仲間たちが和気あいあいとカステラをほおばるすごさが直感的に理解できない。
先ず、田中がどういう意味で「メタファー」という言葉を使っているのかわからないけれど、(少なくとも)『ぐりとぐら』においては「メタファー」は関係ない。私の理解では、Aがそれとは別の等価物Bを指し示すとき、AとBはメタファー的(メタフォリックな)関係にあるということができる。そのとき、AとBは何らかの意味で類似しているということができる*8。カトリックの弥撒において、ワインは基督の血のメタファーであるとか。どちらも赤い液体である。『ぐりとぐら』においては、「たまご」も「カステラ」も等価物Bを指し示すものではなく、端的に「たまご」も「カステラ」なのだ。強いて言えば、「たまご」は車のメタファーであるとはいえるだろう。なので、そもそもこの人、絵本の「読解力」があるのかなと疑問に思ったのだ。
「絵本のない幼児時代とは何か」という問いについては、それは単純に親の貧困問題と直結すると思う。
が、ホリエモン周辺にはおそらく貧困層は存在しないので、ホリエモン周辺(中上流クラス)では、議論もここまでとなる。
ホリエモンたちのような発信力のある中上流層は、下流層の実態を想像できない。だから、「絵本大事だよね〜」まで語れるが、絵本を読めない若い親たちがなぜ絵本に親和性のない価値を抱いたかまでは想像できない。
それは、広い意味での児童虐待の連鎖(ネグレクトや言葉の暴力)に巻き込まれた結果なのだ。
虐待の連鎖の中では、絵本どころではない。
このように、経済的に恵まれたホリエモンたちに、その発信内容に限界があることが、「見えない貧困」をつくっている。それはそれで仕方ない。
さて、「貧困」との関係。所謂文化資本の話。文化資本と経済資本(所謂貧富)の関係も一筋縄ではいかない。耳塚寛明氏が調査したように、例えば絵本の読み聞かせのような文化資本の蓄積は経済資本の学力格差への影響を緩和する*9。たしかに、文化資本を蓄えるには金が要る。しかしそれだけではないだろう。例えば絵本が買えなければ絵本を読めないということではないだろう。公共の本を使えばいいということになる。例えば図書館。また、日本に帰る度に思うのは、日本では銀行、郵便局、市役所、病院の待合室といった公共スペースに常に子ども向けの絵本が置かれているということだ。管見の限り、中国(上海)ではそういうことはない。つまり、日本では中国と比べて、絵本を買えなくても絵本を享受する可能性が高いことになる。だからという強い接続詞を使う自信はないのだけど、「絵本のない幼児時代」というのは、財布よりも文化の問題なのではないかとも思うのだ。或いは、絵本を読まない(読めない)というのが〈貧困の文化〉*10だとして、その貧困は次の世代以降に効いてくるということなのでは? 絵本の読み聞かせをすることはいいことだということは散々言われているので、わかっているし、子どもに絵本くらいは読んでやりたいと思う。しかし、何千、何万とある絵本たちの中から何を択べばいいの? 金持ちなら本屋の棚ごと買い占めることもできるけれど、1回につき1冊しか読めないのであって、そこでもまた沢山の絵本の中から何を択べばいいのかという問題は付き纏う。本来ならば、自分が子どもの頃に読んで面白いと思ったものを子どもにも与えればよい。『ぐりとぐら』だけでなく、所謂名作絵本というのはそのような世代間の伝承によって確定されてきた筈だ。しかし、(自分の経験も踏まえて言うと)そのような経験(の記憶)もないので、択ぶに択べないということになる。
*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140102/1388675061 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180622/1529683308
*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050831 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050902 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060122/1137952844 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060118/1137582386 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060118/1137597351 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060122/1137899122 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060123/1138034290 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060127/1138329871 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060124/1138069211 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071027/1193510497 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080821/1219335534 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080901/1220261689 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110502/1304366060 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140719/1405789987 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150314/1426304189 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160208/1454926774 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160324/1458795081 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160616/1466046630 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171018/1508348476 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180203/1517673830
*4:http://blogos.com/article/332337/
*5:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180502/1525232467 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180808/1533655648 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180822/1534912715 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180925/1537843013
*6:「漫画」の話については、別のエントリーで言及するかも知れない。
*7:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130718/1374112169 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130905/1378349649 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140224/1393208046 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150330/1427734615 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170102/1483284150 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180116/1516069272
*8:隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)の関係については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070923/1190518210 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080106/1199634443 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161228/1482898392 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170508/1494220784も参照されたい。
*9:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090805/1249478075
*10:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070820/1187612830 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070825/1188022106 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110113/1294929104 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161114/1479054941