「神は仮装が大変にお好き」

ピサへの道 七つのゴシック物語1 (白水Uブックス 海外小説 永遠の本棚)

ピサへの道 七つのゴシック物語1 (白水Uブックス 海外小説 永遠の本棚)

イサク・ディネセン*1「ノルデルナイの大洪水」(横山貞子訳)(in 『ピサへの道 七つのゴシック物語1』から少し抜書き。
枢機卿ハミルカール・フォン・ゼーエンシュテット」と「ミス・マーリン・ナット・オ・ダーグ」*2との対話から。
枢機卿曰く、


(前略)あまりにも無力で空しい人間たちに向かって、父なる神は常におなじことをおおせられているのではありますまいか。『顔を洗うがよい。謙遜や自己否定、愛や貞潔を一インチも厚く塗りたくって自分で顔をつくっていたのでは、私には手のほどこしようがない』と。(略)「神が御手ずからわれわれの顔をお洗い下さる。大量の水をお使いになるものですな。しかし、これにまさる光栄や幸せはないと考えて、みずからをなぐさめることにしましょう。神おんみずからわれわれの顔を描いて下さるのですから。それこそがわれわれの長く追い求めてきたことであり、永生と名づけるものにほかなりませぬ。
そう語る人の顔が血のにじむ包帯に厚く覆われているのを見て、ミス・マーリンはなにか言おうとしたが、口を控えた。枢機卿の高貴な面ざしをそこね。二度となおらぬ傷がかくされているかもしれぬと思いやったのだ。それを察した相手は軽く笑って言った。「さよう、神は私の顔を念いりに洗うにふさわしいと思われたようですな。しかしわれわれは、血潮が持つ浄めの力を教えられて参ったはずです。その力は想像以上に強いものだと、いまの私にはわかります。おそらく私の顔には血潮の浄めが必要だったのでしょう。この七十年間、私がどれだけ虚飾の紅白粉を縫ってきたか、それを知りたまうのは神のみではありませんか。まことに、包帯の下にあるこの顔こそ、神に肖像を描いていただくにはこれまでよりもふさわしくなったと思っておるのです。」(pp.36-37)

ミス・マーリンが応じた。「それでは申しあげますが、そもそもあなたさまはなぜ、神が私たちのまことの姿を求めているとお思いなのでしょうか? まったくあなたさま独得の奇妙なお考えと存じます。真実など神は先刻御承知で、いくらか退屈だとおぼしめすのではありますまいか。真実は仕立屋や靴職人のためのものですわ。私は逆にいつもこう考えて参りました。神は仮装が大変にお好きなのだと。われわれの受ける試練は、じつはかたちを変えた恩寵にほかならない。聖職者のかたがたはそうお説きになるではありませんか。その通りなのですわ。仮面がはがれる真夜中になりますと、私もつくづくそう思い知ります。でも一方では、仮面がたぐいない巧者の手でよそおわれていることを否定できる者はおりません。御免をこうむって言わせていただければ、主イエス御自身が肉体をそなえた人間のあいだですごされたときには、ずいぶんのびのびと仮装しておられたものだと存じます。まったく、私がカナの婚礼の家の主人役でしたら、あのめざましい離れわざにいくらか腹をたてたかもしれません。かもしれないと申しているだけですのよ。あの大工の息子のすばらしい若者をわざわざまねいて、私のとっておきの葡萄酒ベルンカストラー・ドクトー*3をふるまおうとしているのに、自分の気の向くままにただの水をずっと上等な葡萄酒に変えてしまうなんて! しかも女主人のほうはもちろん、その若者が全能の神の子で、どんなことでもできるなどとはつゆ知らぬままなのですから。」(pp.38-39)