「もどかしさ」(メモ)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』*1をもう長い間放置してきたのだけど、最近になって、やっと熟読し始めている。
本の冒頭近くから。


革命理論家であるマルクスエンゲルスレーニン等の文章と違って、彼女の文章には「閉塞した現状」を打破すべく読者を鼓舞してくれそうな明快さ、激しさはない。頭の中がモヤモヤしていて、すっきりしたいと思って、哲学・思想書を求める人には、決してお薦めできない。むしろ、その逆である。古代ギリシア・ローマからアメリカの建国の父たちに至るまでの古典的な政治理論や哲学に由来する――「活動action」とか「拡大された心性enlarged mentality」といった――極めて抽象的な概念を独自のニュアンスを込めて駆使し、要所要所でアイロニーを効かせている彼女独特の文体は、かなり「分かりにくい」。歴史的出来事や時事問題を扱っている文章も少なくないが、哲学的なひねりを加えすぎているせいで、政治思想研究の専門家が読んでも、結局何を言いたいのかよく分からないところが多々ある。「政治」という具体的でアクチュアルな現象について書いたはずの文章でありながら、やたらに難しい概念ばかり出てきて、「何をすべきか」教えてくれないので、もどかしい。しかし実は、その「もどかしさ」こそがアーレントの魅力である(というのが私の見方である)。(p.8)
たしかに。まあアレントのとっつきにくさの幾らかは翻訳のマジックでもあるのだけど。仲正氏の本に戻る;

「政治」について語る思想家は往々にして、読者や聞き手の共感を速攻で獲得すべく、耳に残りやすい言葉を使って、「分かりやすい」結論に一挙に引っ張っていこうとしがちである。その場合の「分かりやすい」というのは、あまりにも「明瞭な答え」を与えられて満足し、もはや自分で考える必要がないし、考える気もしない状態にさせてくれるということである。政治思想家が、読者あるいは聴衆に「代わって」考えてくれるのである。あるいは、政治思想家が、特定の政党あるいは運動体の主張の正当性を、読者あるいは聴衆のために「証明」してくれることもある。そういうのは、結局、その思想家、あるいはその思想家が支持する集団の政治的価値観に帰依してしまうことでもあるので、「哲学」というよりも「宗教」に近い営みであろう。「政治思想」に関心を持つ人の多くは、そういうことを期待しているように思われる。(p.9)
仲正氏は、「政治思想」の「分かりやすい」化の帰結としての「ステレオタイプ化」「平板化」をアレントは問題にし続けたと述べている(pp.12-13)。勿論、それは誤りではないけれど、読者に思考停止を要求するような「分かりやすい」化が前提にしているのは、或る種の(軍事的・経済的必要から導かれた)分業体制であろう。頭と手の分離。考える人と、そこから与えられた考えを余計なことは考えずに只管実行する人との分離。まあ、全員が参謀であるような軍隊が戦争に勝つのは極度に困難だとは思うけれど。アレントのテクストに即すと、『革命について』*2の後半部では「革命的伝統」について語られれいるのだが、その「革命」とはまさに上述の分業体制に対する異議申し立てでもある。また、『イェルサレムアイヒマン』で提出された「悪の凡庸性」*3アイヒマンの罪は「与えられた考えを余計なことは考えずに只管」しかも効率的に「実行する」能力を前提としたものだ。
On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

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Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)

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