「解釈学」(リクールにとっての)

ポール・リクール (文庫クセジュ)

ポール・リクール (文庫クセジュ)

ジャン・グロンダン『ポール・リクール』(杉村靖彦訳、白水社、2014)*1から。
「解釈学」を巡って;


(前略)二十世紀には、ディルタイハイデガーといった思想家を介して、解釈学は解釈についての一般的な哲学の理論になった。すなわち、人間存在とは解釈を必要とし、解釈を行うことができ、つねに諸解釈の世界のただ中で生きる有限の存在だと考えるのである。こうしてハイデガーのような著者にとっては、私たちはどうやって自己自身を理解すべきか、どうすればみずからの実存の非本来的なとらえ方を乗り越え、本来的な自己自身になれるかということが解釈学の中心問題となった。リクールの特徴も解釈学の意味のこうした拡張であり(彼自身もそれに貢献した)、とくに倫理的な方向への拡張であるが、リクールはハイデガーが少々事を急ぎすぎたと考える。というのも、ハイデガーはあまりにも根源的な実存解釈学を作り上げたために、歴史学、聖書釈義、比較宗教学、精神分析、言語諸科学といった、人間の現実を解釈する術を行使するすべての分野に暇を出してしまうからだ。これらの知もまた、解釈とは何であるかについて、また人間の現実について、私たちに何事かを伝えるのではないか、とリクールは問う。そして、これらの学問が哲学に教えてくれることに耳nhoを傾けようとする。なぜならリクールにとって、諸科学から切り離された哲学は不毛なものだからである。それゆえ解釈学とは、人間の現実を「直接」にとらえる哲学ではなく、人間の実存しようとする努力に意味と方向性を見てとる諸々の物語や接近法に対して、理性的・反省的な仕方で耳を傾ける営みの名称となる。人間とは、みずからの世界を解釈し、自己自身を解釈することの「できる」存在である。こうした解釈学のいう能力(〈できる〉こと)とはどのようなものなのか。それがリクール哲学の主導的な問いのひとつとなるであろう。(pp.14-15)
ジャン・グロンダン氏は「解釈学」一般について、クセジュから、L'Hermeneutique(2006)を出しているようだが、日本語訳はまだ出ていないようだ。