書評者の「自己弁護」

村上陽一郎*1「前期と後期が存在 不世出の巨人」『毎日新聞』2022年4月2日


野矢茂樹*2ウィトゲンシュタイン哲学探究』という戦い』の書評。
この書評は評者である村上氏の「自己弁護」がかなりの部分を占めている。


ところで、書評の為すべき義務の一つは、当該書物の内容を、未読の方に、判り易く紹介することにあるのが普通だ。しかし、ここでは、私はその義務をあまり果たせそうにない。理由の一つは、私の無能さにあるに違いない。しかし、事はそればかりではない。かつて私は、哲学とは「考える病」だ、と書いたことがある。普通の人なら、考える必要も、必然性も認めないところに、考える種を見付け、それを何とか解決したいともがく性癖を持った人が哲学徒(敢えて「哲学者」とは言わない)だと、私は思っている。
そして、私はWも、前期、後期を通じて、同じような感覚を持っていたのではないか、と邪推する。先回りをして邪推というのは、Wは。彼の思索を解釈・解説しようとする全ての人に、お前の私についての解釈・解説は間違っている、と言うべき人だからだ。そこで、ここでは、Wにあるべき反論は無視して、とにかく私の考えを進めてみる。すると、少なくとも「前期」を代表する『論考』では、哲学的問題は、この書ですべて解決された、というよりは、むしろ、「解消」された、とWは考えていたということになる。言い換えれば、「考える病」に侵されている人に、「もう考えなくてよいのだよ」という治療を施した、とも言える。実際、Wは、その後小学校で教師をしたり、建築設計(彼は工学系の教育を受けた経験がある)に携わったりする。哲学の世界に戻った後はイギリスのケンブリッジで教授となる。

さて、野矢氏が読者に、Wと共に戦わないか、と勧める『探究』の根本主題は、「言語」の問題である。それも、言語とは何か、とか、言語はどのように構成されるか、というような類の言語論ではなく。「人は言葉をつかうことで、何をしているのか」がポイントになる。通常、この問いは「言語ゲーム論」と表現されることが多いが、それは、子供が言語を学ぶ過程で起こることの分析と重ねて論じられる。単なる推測だが、小学校教師の体験が、そうした関心に影を落としているのかもしれない。
本書は、この点を前提そして、野矢氏が、『探究』でWが考えている現場を、野矢氏なりに追体験し、それを一つの記録として読者に提供し、貴方ならどう考えるか、と迫っているものである。だから、著者である野矢氏と同じように考えることが要求されているわけではない。とにかく、この病にかかっている人なら、考えることに誘われないはずのない相手だ。相手にとって不足はあるまい。それが著者の言い分と私は読んだ。内容紹介を怠った理由の一部はそこにある、と自己弁護しておく。