「共感覚」(メモ)

播磨谷拓巳*1「「文字に色を感じる」共感覚とはなにか? イラストで理解を深める」https://www.buzzfeed.com/takumiharimaya/synesthesia


尻子ダマという人*2による「共感覚」についての漫画。「共感覚」の友人がいるのだという。残念ながら、「共感覚」の知人はいない。まあ人は誰もが「共感覚」として生まれてくるが、生後早い段階で、「共」はそれぞれの「覚」に切り離され、所謂五感が成立するということらしいけれど、息子も疾うの昔にその段階は過ぎてしまった。
共感覚」というと、アルチュール・ランボーの「母音」という詩。この詩を初めて読んだときは「共感覚」という言葉は知らなかった。その後に読んだランボーの詩を巡る幾つかの言説でも「共感覚」という心理学的事態よりも万物照応という神秘主義思想との関連で論じられていたことが多かったような気がする。この後に、オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症』*3から抜書きするけれど、サックス先生によれば、ランボーは「共感覚」の研究に対してはネガティヴな役割を果たしたことになる。

ランボー詩集 (新潮文庫)

ランボー詩集 (新潮文庫)

『音楽嗜好症』第14章「鮮やかなグリーンの調――共感覚と音楽」から;

共感覚に対する科学的関心の歴史は、浮き沈みを何度も繰り返してきた。一九世紀初頭、キーツシェリーなどの詩人たちが、複数の感覚を用いたとっぴなイメージや比喩を使っていたころ、共感覚は詩や想像上の思いつきにすぎないと思われていた。その後、一八六〇年代から七〇年代にかけて、一連の綿密な心理学的研究が行われ、一八八三年にゴルトンの『人間の能力とその発達を探る』が書かれるに至る。これらの研究は、この現象が架空のものではないことを示すのに貢献し、その後まもなく、「synesthesia(共感覚)」という言葉が導入された。しかし一九世紀末には、ランボーと象徴派の詩人たちのおかげで、共感覚の概念はまたもや詩人の思いつきと考えられるようになり、科学的調査の対象とは見なされなくなった。二〇世紀も三分の二が過ぎたころ、ジョン・ハリソンが名著『共感覚――もっとも奇妙な知覚世界』に詳述して、再び状況が変わる。一九八〇年代、リチャード・シトーウィックがはじめて共感覚者を神経生理学的に研究した。当時は技術的な限界があったにもかかわらず、この研究は脳の異なる感覚野(たとえば聴覚野と視覚野)が共感覚体験と同時に、本当に活性化されることを示しているようだった。一九八九年、彼は先駆的な『共感覚――感覚の統合(Synesthesia: A Union of Senses)』を発表し、その後一九九三年に、このテーマを探究した一般書『共感覚者の驚くべき日常』を刊行する。最近の機能的脳画像の技術によって、シトーウィックが予測したとおり、共感覚者の大脳皮質は二つ以上の感覚野が同時に活性化することの動かぬ証拠が示されている。
シトーウィックがアメリカで共感覚の研究をしているころ、サイモン・バロン=コーエンとジョン・ハリソンはイギリスでこのテーマを開拓し、一九九七年に概説書『共感覚――古典と現代の書を読む(Synaesthesia: Classic and Contemporary Readings)』を刊行している。(pp.255-256)
また、

共感覚が起こると同時に、ほとんどの人では機能的に独立している感覚皮質の部位が、異常なレベルで交差活性化を起こすようだが、そのような交差活性化は、脳の異なる部位の神経接続が解剖学的に過剰になることが原因かもしれない。霊長類その他の哺乳類で、そのような「過剰接続」が胎児期から新生児期には実際に存在するが、生後数週間か数ヵ月で縮小する、または「刈り込まれる」ことを示す証拠がいくつかある。人間の乳児について同等の解剖学的研究は行われていないが、マクマスター大学のダフネ・マウラーが言及しているように、乳児の行動を観察すると「新生児の感覚は十分に分化せずに混じり合っていて、共感覚のように区別されていない」ことがうかがえる。
バロン=コーエンとハリソンが書いているように、「人はみな、もともと色が聞こえる共感覚者だが、生後三ヵ月くらいでこの二つの部位の接続がなくなってしまうと、共感覚を失う」のかもしれない。この理論によると、正常な発達においては、共感覚による「混乱」は大脳の成熟とともに二、三ヵ月で消え、種々の感覚がもっと明確に区別・分離され、それによって外界とその内容を完全に認識するのに必要な、知覚の適切なクロスリファレンスが可能になる。青リンゴの見かけ、感触、味、そしてかじったときの音が、すべて調和することを確認するクロスリファレンスだ。共感覚がある人の場合、遺伝的な異常によって、この初期の過剰接続が完全に断ち切られず、そのために程度の差はあれ、成人になってもそれが残っている。(pp.257-258)
ダフネ・マウラーの論文は、


Daphne Maurer “Neonatal synaesthesia: Implications for the processing of speech and faces” in Simon Baron-Cohen and John Harrison (eds.) Synaesthesia: Classic and Contemporary Readings, Blackwell, pp. 224-242, 1997