『自分ひとりの部屋』

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳)*1を先週読了。


第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章


訳注
訳者解説(片山亜紀)

文学史としての、またフェミニズム本としてのこの本の意味については、片山さんの「訳者解説」を初めとして、既に多くのテクストが書かれている筈である。なので、ここではこうしたトピックに言及するのは取り敢えず控えることにする。
(女性が)「小説ないし詩を書くのであれば、年収五百ポンドとドアに鍵のかかる部屋が要る(it is necessary to have five hundred a year and a room with a lock on the door if you are to write fiction or poetry.)」(第6章、p.181, W*2. p.101-102)。「年収五百ポンド」については、要するに「知的自由はつねに物質的なものに支えられています(Intellectual freedom depends upon material things.)」ということなのだろう(p.186, W. p.104)。これらに絡んで、ハンナ・アレントという女性の名前を呼び出し、特に前者の問題に関しては『人間の条件』と『革命について』という著作を、後者の問題に関しては『精神の生活』*3という著作を喚起しておくのはけっして的外れなことではないだろう。
The Human Condition

The Human Condition

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

The Life of the Mind (Combined 2 Volumes in 1)

The Life of the Mind (Combined 2 Volumes in 1)

さらに、ヴァージニア・ウルフニーチェ以降の人だということに注意しなければならない。この本の中の至るところで、「ものを創造するという行為にもっともふさわしい精神状態」、「あの奇妙な行為を促進し、可能にしてくれる状態」(第3章、p.90)についての省察を聞くことができる。どうやら、それはルサンティマンを含む〈雑念〉が浄化された状態であるらしい。ウィリアム・シェイクスピアを巡って曰く、

わたしたちはシェイクスピアの精神状態のことを何も知らないと言いますが、そうは言いながら、彼の精神状態について何かを語っています。わたしたちがシェイクスピアについてダン*4ベン・ジョンソンやミルトンほどにも知らないのは、たぶんシェイクスピアの悪意や怨恨や反感がどこにも見当たらないからです。作者のことを想起させるような「発見」で、妨げられることがありません。抗議をしたい、何かを説きたい、損傷を被ったと申し立てたい、恨みを晴らしたい、自分の苦労や怒りについて世間に知ってもらいたい、などの願望のすべてが、焼き尽くされ使い尽くされています。だからこそ詩情が淀みなく、妨げられることもなく、彼から流れ出ています。作品をまるごと表現できたひとがもしいたとしたら、それはシェイクスピアそのひとです。(略)白熱した、何者にも制御されない精神があったとしたら、それはシェイクスピアそのひとの精神に他なりません。(第3章、pp.99-100)
さらに、ウルフというか語り手の「メアリー・ビートン」は、トルストイの『戦争と平和』を引き合いに出して、「誠実さ(integrity)」について語っている。「小説家にとっての〈誠実〉という言葉でわたしが意味しているのは、これが真実だと読者に確信させる力(the conviction that he gives one that this is the truth)のことです」(第4章、p,127, W. p.79)。続いて、

ひとは読みながらすべての語句、すべての場面を光に照らしてみます。じつに奇妙なことではありますが、母なる自然はわたしたちに内なる光を授けてくれました。内なるその光に照らせば小説家が誠実か不誠実かを判断できます。というか、自然はごく気まぐれに、わたしたちの心の壁に見えないインクで予告を書いておいてくれたのかもしれません。その予告を、優れた芸術家が本当のことだったと確証してくれるのです。天才の炎でスケッチをあぶり出してくれるのです。そうやって炎であぶり出されて文字が蘇るのを見ると、わたしたちはうっとりして〈これこそ、自分がいつも薄々感じていたこと、わかっていて待ち望んでいたことだ!〉と叫び、興奮に沸き立ちます。そして本を閉じるときにはますます恭しく、まるでその本がたいへん貴重なもの、生きているかぎり立ち返ることのできる盟友とでもいうように、本棚に戻すのです(略)でも逆に、下手な文章で書かれていて、派手な色合いと威勢の良さのせいでパッと熱い反応を返したくはなるものの、そこで止まってしまうようなものもあります。当初の反応を続けていきたくても、何かが妨げになるようなのです。あるいは、文章が拙いせいで、殴り書きの痕跡やら染みなどがそこここに浮かび上がるばかりで、まるごとそっくり見えてこない、ということもあります。すると、わたしたちは失望の溜息を漏らしながらこう言うのです――〈また失敗作だ。この小説はどこかでしくじっている〉。
もちろん、たいがいの小説はどこかでしくじっているものです。途方もない重圧のせいで、想像力が途中で行き詰ります。洞察に混乱が生じて、真偽の区別がつかなくなります。渾身の力で多種多様な能力をつねに稼働させておかなければならないのに、その力が途中でなくなっています。でもこういうことに、小説家の性別はどう影響しているのだろう?――と、わたしは『ジェイン・エア』その他の作品を見ながら思いました。性別は、女性小説家の〈誠実〉、わたしが作家のバックボーンと見なしている〈誠実〉の何らかの妨げになっているのでしょうか? 『ジェイン・エア』からわたしが引用した場面かを考えれば、怒りが小説家シャーロット・ブロンテの〈誠実〉を邪魔しているのは明らかです。彼女はストーリーに全力を尽くすべきときに、個人的な腹立ちに気を取られていました。しかるべき経験が自分には与えられなかったこと、世界中を気ままに放浪したいときに牧師館で靴下を繕ってくすぶっていなくてはならなかったことを、彼女は忘れられませんでした。義憤のせいで彼女の想像力は脱線していまい、わたしたちも脱線したと感じています。それに、想像力を妨げてしかるべき道筋から脱線させたのは怒りでしたが、他にも〈誠実〉の妨害になるものはたくさんありました。たとえば無知がそうです。ロチェスターの肖像は暗闇で描かれたものです。そこには恐怖の影響があります。抑圧の結果として辛辣になっているのがつねに感じられる一方で、情熱の下で苦しみがくすぶっているのが、素晴らしいはずの作品が怨恨の発作でときおり苦しげに収縮するのがわかります。(pp.127-129)
この本の訳文は、英語からの翻訳であることを意識させないくらい自然でスムーズな日本語に仕上がっている。その一方で、訳者は大胆にパラグラフやセンテンスを分割している。その功罪は議論されて然るべきだろう。また、登場する固有名詞の原綴りは表記してほしかった。