MとかFとか

朝比奈なを「モンキー高校と侮蔑される教育困難校の実態」http://toyokeizai.net/articles/-/140774


或る方から教えられる。その人は普段高校教育に興味を持っている素振りも見せていなかったので、ちょっと意外な気もした。
所謂「底辺校」*1の一見混沌とした日常が記述される。
著者は「底辺校」という用語には批判的である。曰く、


教育困難校」という言葉を、あまり聞き慣れない方が多いのではないかと思う。このタイプの高校は「進路多様校」と言われることもあるが、最も知られている呼称は「底辺校」だろう。もちろん、これは、各地の予備校や塾が出した受験偏差値を基に作られる偏差値一覧の底辺部に位置する高校という意味でつけられたものだ。

しかし、この呼称が侮蔑的で、そこに通う生徒たちを大いに傷つける点、偏差値一覧の偏差値は必ずしもそれぞれの学校の実相を表すものではない点などから、筆者を含め多くの人は、最近は「底辺校」という呼称を意図的に使わないようにしている。

では、「教育困難校」とは、どのくらいの受験偏差値の学校を指すのだろうか。実は、この偏差値以下の高校が「教育困難校」という明確な基準はない。インターネット上では「底辺校」という呼称が使われて、偏差値39以下、38以下の高校がこれに該当するといった、ほとんど根拠のない記載が数多く存在する。

これに対し、筆者は偏差値40台前半以下の普通科の高校が「教育困難校」に該当すると考える。商業高校や工業高校等の専門高校は、受験偏差値は高くないところが多いが、そこでは専門的技術や資格の取得というわかりやすい目標があり、授業1つとっても、「教育困難校」とはまったく違う風景が広がる学校がほとんどである。

これらの「教育困難校」に通う生徒はどのくらい存在するのだろうか。細かい統計的分析を経たわけでないことをお断りしておくが、筆者は体験から、「教育困難校」に通う生徒は、同学年全生徒の約15〜20%ではないかと推測している。

教育困難校」の生徒たちは、周囲から「クズ高校」「モンキー高校」と軽蔑され、ただでさえ低い自己肯定観を高校3年間で、完膚なきまでに傷つけられてしまう。将来の夢も狭められ、ほとんどの生徒は貧困層予備軍として社会に出ることになる。在校中の中退率も高く、消息がわからない卒業生も少なくない。せっかく正社員で就職できても、社会人として必要なさまざまな能力が身についていないので、短期間に辞めてしまう例も多い。

たしかに「底辺校」という呼称が適切ではないということはその通りだろう。それにしても、これって例えば『ドラゴン桜*2とかのドラマで些か戯画的に描かれた世界だといえるだろう。また、或る年齢層の人なら、多賀たかこ『はいすくーる落書』の世界だねと思うかも知れない。勿論、私が高校生だった1970年代にもこういうことは聞いていた。高校進学が既に特権的なことではなく当たり前のことになっており、尚且つそれぞれの高校が「受験偏差値」を軸にして水平ではなく垂直(ヒエラルキー的)に分布している以上、その頃から(著者はこの言い方を嫌うだろうけど)「底辺校」問題は存在していた。また、1970年代から80年代というのは〈校内暴力〉がいちばん激しかった時期であり、その頃を詳しく知るが上の記事を読んだら、何かほのぼのとして平和な学校だねと思うかも知れない。何が言いたいのかというと、昔からこういう問題は存在していたわけだけど、ただ未解決ということだけじゃなくて、何かが変わっているんじゃないかということだ。一つ言えるのは、「教育困難校」の生徒たちが言われっぱなしだということだ。それは「モンキー高校」と「侮蔑」する世間に対してだけではない*3。彼/彼女らにシンパシーがある著者のような人たちにも、彼/彼女らは或る種の〈欠如〉或いは問題としてしか認識されていないのではないのか。かつてのように教師や世間の視線に対して〈暴力〉で応えるということもない。また、エリート文化に対して(例えば)ヤンキー文化を対置することもない。ヤンキーの衰退というか、ヤンキーを社会の一部として統合していた社会構造(地域社会や産業の在り方)の変容*4
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はいすくーる落書 (朝日文庫)

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さて、


「【読書感想】Fランク化する大学」http://blogos.com/article/194265/ *5



音真司『Fランク化する大学』という本の書評。fujiponさん曰く、


Fランク大学」って、ネットではよく見かける言葉なのですが、僕は最近まで、その意味を正しく理解していませんでした。
 Aランクから、B、Cとあって、Eの次がFランクなのだと思い込んでいたのです。
 実際は、ある大手の予備校が(偏差値が低いのは間違いないのですが)、「受験すれば誰でも合格する大学を、フリーの意味を込めて『Fランク』としていた」のです。
 あまりにも侮蔑的なニュアンスで使われることが増えてしまったため、この予備校も現在は「Fランク」というのは使っていないそうですが。
「ある大手の予備校」とは河合塾。誰でもそう思いますよね。元々は偏差値と合格可能性との相関関係が確立できない、或いはフラットになってしまうということだったと思う。また、学力に問題がある大学だけではなく、ポピュラリティがないマニアックな学科や専攻(例えば仏教学とか)や遠く離れていて地理的にハードルが高い大学も統計学的には「Fランク」*6ということになってしまう。
さて、『Fランク化する大学』の内容は、

学生、教員、経営者、すべてが劣化!

教員は見た! 学生、講師、大学経営者、全てが劣化(=Fランク化)する大学の裏側!
「ヨーロッパ」を国の名前だと勘違いする学生、授業中に友人とハイタッチしまくる女子学生、うるさすぎる教室…。学生の質の低下が叫ばれて久しい。しかし、劣化しているのは学生だけではない。
プロジェクトX」のDVDを流すだけの授業をする講師、学生同士の名ばかりディスカッションでサボる教員。大学経営者は、低賃金で非常勤講師を雇い、浮いたカネで有名人を教授にしたり、有名アスリートを運動部監督に迎えたりする。
2016年3月まで3つの大学で教鞭を執っていた著者が、大学が抱える問題を浮きぼりに。 さらに、よい大学の見分け方も掲載。大学のパンフレットやウェブサイトの見方まで紹介する。

※「Fランク」…元々、大手予備校がつくった言葉で「ほぼ無試験で入学できるランク」を意味する(現在、この予備校では使われていない)。本書では、「Fランク化」を「劣化」の意味で使っている。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4098252813/kohakuironoza-22/


関田真也「「Fランク大学」の存在意義はどこにあるのか」http://toyokeizai.net/articles/-/115203


聖学院大学柴田武男氏(経済学)へのインタヴュー。
曰く、


――学問を通してコミュニケーション能力を高める、という方法は迂遠な印象もあります。学生に効果は出ているのでしょうか?

正直なところ、そう簡単ではないでしょうね……。私だって大学や学生の現状がどうなっているのかは、嫌というほど分かっている。でも、理念は現実とずれているからこそ、理念なわけです。本当は「大学で学ぶことに価値がある、考えること自体に価値がある」と言いたい。でもそれが通じるかは現実としては厳しいかもしれません。企業だって採用の時は大学の成績を見ているわけだし、「しっかり大学で勉強をして、いい会社に正社員で入って、給料をきちんともらいなさい」って……。どうしてもそういう言い方で、4年間の学業の意味づけって説明せざるを得ない。


 ――そこでしか結びつかないとすると、やはり「大学教育の貧困」を批判されてしまいそうですが。

それは否定できません。ただ、教育はもちろん大切なのですが、学校教育がすべての問題を解決できる万能のツールではない、という面もあると思います。お金は大切ですが、お金だけで人は幸せにならないのと同じ。家庭も然り、友人も然り、いろいろとよってたかって人生ではないですか。人生とは複雑でいい加減なものです。そのいい加減さをどう認めるのか。それが現代社会の課題だと思うんですよね。

――そうした、社会の余白、膨らみが大切だと。

そう。教育、さらに学校制度は何のためにあるのかと問われれば、それは、急速に変化する世の中から切り離して、子ども達を立ち止まらせるためだと思います。偏差値社会は、序列社会です。人を押しのけて、這い上がろうという意識に満ちています。それがいきすぎて、「自分は本当に勝ち残れるのか」という気持ちが蔓延する、不安社会となっている。

色々と言われていることは分かっているけれど、私はBF(ボーダーフリー)の大学こそ、日本の希望だと思っているんですよ。決して絶望して居直っているのではありません。私たちだからこそ、教えられることがあると思うのです。それは、「人の物差しで生きるな」ということ。いわゆる高偏差値の大学の学生では、社会の物差しから自由になれないし、なろうともしません。私たちは、Fランクですから、社会の尺度からは比較的自由。それは、この生きにくい社会での優位性だと、我々は考えてます。

人の尺度で生きるのはやめて、自分の価値観を信じる。大学の教員として、それを支える側に立ちたい。私たちの大学の学生は、のんびりしすぎて心配な面もありますが、優しさに満ちています。その優しさこそ、今の日本社会にとって何よりも大切だと、私は信じているのです。

さて?