「教育の機会の不平等」へ?

承前*1

山口一男*2「失敗の歴史から学ばない教育政策―国立大学付属校の抽選入学制度について」http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0483.html


「国立大学の付属校が「エリート化」し、本来の役割を十分に果たせていないとして、文部科学省有識者会議」が8月「29日、学力テストではなく、抽選で選ぶことなどを求める報告書をまとめた」*3ことに対する批判。一言で言うと、「この政策により教育機会の不平等が増す」。


仮定1:比較的安価で、家族の収入によらない基準で手に入れることが可能な質の高い公教育が存在する。

仮定2:質の高い教育の前提として、質の良い「サービス利用者(学習能力の高い生徒)」の存在が一因として存在する。

この仮定は平均的に学習能力の高い生徒だからこそ、高度な内容の教育が提供でき、また成功する傾向を意味する。教育の「コンテクスト効果」と呼び、これは実証されている。

仮定3:しかし、為政者はこの「公的サービス(公教育)」の利用者や、その内容に「学力偏重」があることを嫌い、政策介入を加えて、その「偏り」を除こうとする。

仮定4:学力を重視する大多数の旧制度の潜在的利用希望者は、政策介入後の新制度を嫌い、代替えの選択をしたり、他の制度の利用で補完したりしようとする。しかし、質的に同等な教育は、旧制度と同等に低い価格では得られない。

この仮定はそれまでの優れた公教育の同等な代替は、優れた私立校や、質の良い学習塾でしか補うことができないため、経費が高くなることを意味する。これらを仮定すると以下の結果が得られる。

結果1:政策介入後の利用者(入学生徒)の平均的学習能力が下がり、もはやコンテクスト効果は期待できないので、新制度は以前のような質の高い教育は提供できなくなる。

結果2:旧制度の潜在的利用者のうち、経済的に裕福な家庭の子女は、より高い対価を払って、同等な質の教育を受けられるが、裕福でない家庭の子女は、同等な質の教育が得られず、貧富による教育の機会の不平等が生まれる。

結果3:比較的裕福な家庭が、教育により高い価格を支払うようになるので、教育費が平均的に高くなる。

具体例として参照されているのは、東京都の「学校群制度*4と「ゆとり教育*5。私もこの話を聞いたときに先ず「学校群制度」のことを想起したのだが、「ゆとり教育」の方はそう単純な話ではないとは思う。

また国立大学付属校の「本来の目的」は、多様な背景を持つ生徒への実験的教育による教育方法の研究にあるというのが今回の施策提案の理由だが、優れた教育方法は学習能力と独立ではない。たとえば新しいアイデアを生み出すのに必要とされる「批判的思考」の育成は比較的能力の高い生徒にのみ有効であることが知られている。抽選にすれば、平均的能力を持つ生徒への教育法の研究法には資するだろうが、学習能力の高い生徒に対する優れた教育方法の研究には資さない。ゆえに「本来の目的」でも現行制度の選抜方法を維持しなければできないこともある。また優れた人材の輩出のためには、多様な潜在的才能を伸ばす「英才教育」の研究は極めて重要である。国立大学付属校が家庭環境の上で「エリート化」しているのであれば、入学試験だけではなく、公立中学の成績評価の入学への比重を増やすなどして、家庭環境でハンディキャップを負う優秀な生徒がより入学しやすい仕組みで補完すればよい。
基本的には賛成なのだが、「能力」というのをちょっと固定的に捉えているんじゃないかという印象は拭えない。「学習能力」というか学力自体には「学習」の効果という側面があるというか、その人の誕生して以来の環境との相互作用の効果であるともいえるのではないか。それ故に学力の階級性ということも絡んでくるわけだけど。

(前略)国費での「エリート教育」に反対するというのは偽善である。それならば、いっそのこと東大・京大などのエリート国立大も抽選で入学者を決める制度にして見ればよい。東大・京大卒の市場価値は失われ、学費の高い慶応・早稲田などの有名私立大学のみがエリート大学となり、私立大学の卒業生が経済社会的に高い地位を独占し、高い学費を払えない貧しい家庭の子女は地位達成の夢など見ることはできない社会となるだろう。
そりゃそうだ。