「近代への呪術師とならねばならぬ」(石牟礼道子)

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

若松英輔『生きる哲学』*1の第11章「伝える フランクルが問う人生の意味」は石牟礼道子*2の話から始まっている。
水俣病」が日本国家によって正式に公害病として認定されたのが1968年。1960年から書き継がれていた石牟礼の『苦海浄土』が単行本として上梓されたのが1969年。「世の多くの人びとは、この作品によってはじめて、水俣病の一端を知ることになる」(p.200)。

苦海浄土―わが水俣病 (講談社文庫)

苦海浄土―わが水俣病 (講談社文庫)


[『苦海浄土』で]最初に記されたのは、単行本になったときの第三章「ゆき女きき書」だった。「ゆき」とは水俣病に襲われたひとりの女性の名前である。四十歳を過ぎた彼女は夫と共に漁をして暮らしていた。彼女は残滓のように残った力で石牟礼にこう語った。
「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった」。自分はもう十分に口が利けない。すまないがそう思って聞いて欲しい。海での生活は本当に幸せだった、という。ゆきは恨み言をいうのではなく、自分の幸福をかみしめる。元の身体になって、もう一度海に戻りたい。それだけが彼女の願いだった。こうした言葉は知解されることを拒んでいる。表記文字の奥に潜む律動を感じることを求める。
(略)病院にいた石牟礼は、言葉になろうとしない数知れない同質の呻きを聞く。『苦海浄土』に記された出来事は、死にゆく人々との無言の交わりに始まったと石牟礼は書く。

わたくしは彼女のベッドのある病室にたどりつくまでに、幾人もの患者たちに一方的な出遭いをしていた。一方的なというのは、彼らや彼女らのうちの幾人かはすでに意識を喪失しており、辛うじてそれが残っていたとしても、すでに自分の肉体や魂の中に入りこんできている死と否も応もなく鼻つきあわせになっていたのであり、人びとはもはや自分のものになろうとしている死をまじまじと見ようとするように、散大したまなこをみひらいているのだった。
(『苦海浄土』)
言葉を奪われた者たちが発する「言葉」がある。言葉を奪われた者だけが発することのできるコトバがある。それは、すでに言語の姿をしていない。裸形の意味となったうごめきである。
表層意識上では、すでに活動は見られない。身体も自由にならない。だが、苦しむ姿は雄弁に水俣病の現実を物語っている。そこに石牟礼は、無尽のコトバを「読む」。この出来事は彼女に書くことを促す。それはほとんど強いるといってもよい経験だった。
作品を書くことを通じて、言葉をコトバの次元に深化させること、あるいはコトバとして顕現した言葉にならない魂の叫びを言葉に刻みこむことを、自分は託されているのだと石牟礼は感じる。彼女は作家になりたかったのではない。このコトバとの遭遇が彼女を書き手へと変貌させたのである。(pp.200-202)
「釜鶴松」という男のこと;

なぜか、男の肋骨の上には雑誌の付録にあるような小さなマンガがある。彼がそれを読でいたのではない。このときすでに彼は発語と共に視力を奪われている。本は家族、知人の誰かが寝ていた彼のそばにおいたのかもしれなかったが、男は不自由な身体でようやく、マンガ本をついたてのように自分の身の上に立てたのだった。そうすることで半開きのドアから自分の姿が見えないようにしていたのである。
この姿を見て石牟礼は、自分の姿を誰にも見られたくないという、尊厳を重んじる男の祈りにも似た気持ちを認識する。(略)
だが、肋骨の上のマンガは安定していない。ばったり倒れ、落ちる。すると「たちまち彼の敵意は拡散し、ものいわぬ稚ない鹿か山羊のような、頼りなくかなしげな眸の色に変化」した。怒っている、この男は「苦痛を表明するよりも怒りを表明して」いる、と石牟礼は感じる。さらに彼女は、視力を失ったはずの男から投げかけられる強い視線に気が付く。石牟礼は「見えない目でわたくしを見た」と書いている。
視線を感じることはある。だが、視線を見ることはできない。見えなくなった目からも視線は放射されている。より強い、コトバと化した視線を石牟礼は全身で感じる。二人の間では、視線がコトバとなる。
受けとめる相手さえいれば、あらゆる行為はコトバとなる。絶望する友の肩を叩く行為もコトバであり、悲しみに我を失う者を抱きしめるのもコトバである。水俣病に関するどんな詳細な記述も、この男が感じているままに述べることはできない。男も石牟礼の視線を感じたのだろう。「このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであった」と彼女は書き記している。
真実は、社会的にはほとんど無力に等しいこの男のまなざしによって明らかにされている。それは言葉では語られることはないが、生きられている。そのときの様子を彼女はこう綴っている。

この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。
(『苦海浄土』)
真の語り手は自分ではないと明示するところから『苦海浄土』は始まっている。ここで語られているのは比喩ではない。描き出されているのは献身の過程である。一つ、また一つとコトバを感じるのではなく、わが身をコトバが顕われる場所に差し出そうとする。
この作品を書くまで石牟礼は、文学に関心を寄せていた一介の主婦だった。ときおりエッセイや短歌を雑誌に投稿することはあっても、書くことを生活の中心においていたのではなかった。だが、容易に言葉にすることができない悲劇が世界を襲うとき、大いなる者は人を選び、その口をもって語らせることがある。(pp.202-204)
「死にゆく者、すでに冥界に行った者、この世での言葉を奪われた者たちの口になる」こと(p.205)。