故郷喪失者としてのパウロ(小川国夫)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明、小川国夫「新共同訳聖書を読む」*1(『宗教論争』、pp. 155-191)から。
小川国夫の発言。これは吉本の発言(pp.172-173)を承けてのも。その中で吉本が「ダブルバインド」という言葉を使っているのだが、吉本の「ダブルバインド」理解はかなり??なものである*2。それはともかくとして、


小川 パウロの手紙がそうですね。彼は祖国から追放され、ユダヤ人共同体からも追放されるんですが、自分の陥ったみじめな立場がかえって大きな恵みだと考えるのです。みじめさ、弱さを取り去ってほしいと願っていたけれども(略)みじめさ弱さはそのまま救いだったんだといいます。アイデンティティの喪失というか、つまり拠り所をなくしてしまってから、はじめて自分の本当の人生はあ始まったのだから、これが恵みでなくてなんであろうと彼はいうのです。あれはハイマートロスの文学なんですね。ハイマートロスだけれども、たとえばパウロエルサレムの階級秩序というか、それは睨んでいるわけです。つまり、現在が貧しいからかえって自分が頼りにしていたものが見えてきて、もう自分はあそこへ帰属できないと思います。あの階級序列を昇っていっても天国はないと、私は天のエルサレムをもっている、帰るべきところは現実のエルサレムじゃなくて、心に天のエルサレムをもっていると言いつつ、ずいぶん広い範囲を旅していたわけです。体も弱かったらしいし、ほとんど財布に金も入ってなくてです。
貧しいものと言えば、パウロほど貧しいものはないでしょう。しかし逆説なんですけど、パウロは自分が貧しさの極致、みじめさの極致へ入っていけば、報いられる感情的満足というのがますます大きくなるんですね。
彼はエルサレムの序列の中に位置づけられていた人で、しかも将来有望なエリートだったんです。それが一気にやめちゃったわけです。(略)全く非条理な転向をパウロはキリストの恵みであったと言っているんですね。キリストの恵みというと、横から、そんなものはと言って異論をさしはさむ余地はないんです。固く信じて、キリストの恵みがあったんだって言ってるんですから。けれども、俗論だけれども、パウロ癲癇説というのがあるんです。あれほど急激にほとんど三日で自分の考えをがらりと変えるという、そういうことがあるんで、パウロ癲癇説にとらわちゃった人は――親鸞は、誰でしたっけ、黒谷のお師匠さんに……。
吉本 法然
小川 法然にだまされてもついていくと言っているでしょう*3。あれ式のことになりますね。たとえパウロが癲癇でその結果として彼の心境があるとしても、ついていくということになりますから、そのへんが、教会で言っているようなことじゃなくて、ドラマチックな本だと思いますがね。
(後略)(pp.173-175)