Phoney

Xinhua “Phoney universities create real confusion” Shanghai Daily 22 May 2015


「虚假大学」を「フェイク大学」と訳してみたのだが*1、上掲の新華社の記事ではphoneyと訳されている。フォニーといえば、江藤淳*2。「フォニー」+「江藤淳」を鍵言葉にして検索をかけると、例えば、


江藤淳の「フォニイ」論」http://japan-us-world.at.webry.info/201405/article_6.html
小島信夫と森敦と江藤淳http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20071220


といったblogエントリーが上位で出てくるのだが、それらとは全く別の山口昌男先生*3が江藤の仕掛けた「フォニー」論争自体を(トリックスター的に)からかった文章があって、それは『知の祝祭』(青土社)に収録されていたと思う。違ったっけ? また、金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』*4に曰く、


(前略)十何年前に、江藤淳が「フォニー」という言葉を日本の小説家のある種の人々に対して使ったことがあります。そこで「フォニー」といわれたの作家は、(略)辻邦生もそうでしょうし、中村真一郎福永武彦、ちょっとちがうかなとも思ったのですが加賀乙彦とか、いわゆるロマンというものを書こうとしていた人たち、たとえ新聞小説であっても風俗小説ではない小説を書こうとした人たちとでも言っておきましょうか。日本には西洋の近代が発明したロマンがなかったのだけれども、ロマンというかたちで小説を定着させようと営々とやってきた小説家たちのことを江藤淳は――江藤淳の考え方と私の考え方はだいぶちがいますが――一種スカッとした感じで言い切ってしまった。フォニーと言わずに、もちろん、幼稚な小説と言ってもよかったのですが、「幼稚な小説」という言葉では、いささか、文壇の耳目を集めるには不足で、やはり、「フォニー」という、当時、福田恆存がわざとらしく、ウェブスターだかなんだかの辞書を繰ってみたと書いたように、耳なれないカタカナ言葉が必要でした。(p.154)
金井先生によれば、「「フォニー」の元祖が横光利一とか伊藤整ではないか」ということになるのだが(p.155)。
知の祝祭 (1979年)

知の祝祭 (1979年)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)