「性」を巡って(金井美恵子)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』*1からメモ。
淀川長治*2という人が、映画を見ながらある種の原生動物のように自由に(中略)性を変えてしまうように見える」(p.42)という話から始まって。


あるスターの性的魅力を自分の反対の性の持ち主ゆえに魅惑される性的関係ということではなく、簡単にいうと、男がスクリーンで微笑んでいれば観客は女になり、女優がスクリーンで非常にエロチックな姿態で動き回って微笑めば、そのとき見ている者は、男になる以外にない、そういう無意識の構造で二十世紀の初めに映画はつくられてしまったのではないでしょうか。
だからそこでは、性が売りものになっていながら、その性が奇妙なことに大変具体的なかたちで女性的魅力、男性的魅力が強調されているにもかかわらず、そういった魅力は、観客を同時に男でもあり女でもあるものにしてしまう。それと同時に、俳優たちも両性具有者となるわけです。観客も、両性具有者になって悪いわけがあるでしょうか。
ハリウッドの映画はほとんど無意識にそういうことがわかっていたのではないかと思うし、演劇というものも、そういうものだったはずです。でなければ、当時、女優というものがいなかったとはいえ、シェイクスピアも繰りかえし、男と女が入れかわる話を書きはしなかったでしょう。女とか男といった性差というのは、絶対的なものではないのです。人はどちらの性を持つことも可能なのです。(pp.44-45)

(前略)クローズ・アップという方法で、男優は女優化されるのです。いわばカメラによって犯される、とでも言ったらいいでしょうか。ボーボワールは「女に生まれるのではなく、女になるのだ」と言いましたが、ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』のなかで、「人は待つことによって女性化する」と言っています。性器的差異と関係なく、人は男にも女にもなれるのです。「女々しい」という言葉はマイナスの意味で使われる言葉ですが、男女問わず、まさしく「女々しく」なれるのだし、「雄々しく」もなれるわけです。まして、小説を読む時、自分の性などを常にアイデンティファイする必要があるでしょうか。
一般的な読者に限らず、文芸批評家でもいいし、実際に小説を書いている人でもいいですが、男の読者だったら男の登場人物に感情移入して読み、女性の読者だったら女性の登場人物に感情移入をして読む読み方を、つい口にし、つい書いてしまうようです。それはたとえばボーボワールと、この名が出ると、ついつづけて女史と言いたくなってしまうのですが、『第二の性』のなかで、ブルトンの『ナジャ』についてボーボワールが書いています。ボーボワールは何の疑いもなく女の読者が――自分も女の読者なのですが――ブルトンの『ナジャ』を読むとき、ナジャに自分をなぞらえると思ってしまうのです。(pp.45-46)
ナジャ (白水Uブックス)

ナジャ (白水Uブックス)


「女に生まれるのではなく女になる」のです、男女を問わず、真実も*3。それは性器の違いを越えたものなのです。いわば、性差は〈フィクション〉なのです。まあ、〈制度〉と言ってもいいし、なんと言ってもいいでしょう。そして、私たちはそのフィクションと戯れることを、演劇や映画や詩や小説や、それからもちろん〈現実〉や〈実生活〉からも、学びとっているのではないでしょうか。
中上健次は私の家に泊まっていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです――性的嗜好が同性愛者であるなしにかかわらず、この人はお姉さまだとしか思えない男性もいますし、オジサンとしか言えないような女性もいますし、オバサンとしか言えない男性もいますし、お兄さまのような女性もいます。
オジサン、オバサンには色気がなく、お姉さま、お兄さまには色気がある、ということだとお考えいただきたいのですが――オバサンとオバは違うのです。こちらには刀自という響きがあります――とにかく、性差は決して固定的なものではありません。
そこで自分が生まれ持った性差などで、本の読み方が変わってしまうなんてことを、信じていいものでしょうか、と私は思うのです。そういうことは絶対ありえないし、もしそういう読み方しかできないのであれば、小説は常に男でも女でも半分しか読めないことになります。もし主人公が女だったら、女の立場でしか読めないのだとしたら、その小説は男の読者には半分しか読まれていない。その反対も真なりで、単純な計算をすると、一冊の本半分しか読めないと、いうことになります。
それは大変に損なことですし、もちろん実際にはあり得ないことでしょう。にもかかわらず、真面目な読者は自分の性のアイデンティティ固執し、真面目な作者もまた自分の性のアイデンティティ固執します。「物語」というもののなかでは性的アイデンティティは重要なものでもあるのですが、けれども、神話という物語のなかでも、男女の双子の片われであるディアーナや、その仲間のアタランテなどといった、といった、性差を無視して、その境界を越えてしまう女性たちも登場しております。(pp.50-52)
中上健次が家に泊まった事件については、「文庫版あとがき」でも言及されている(p.251)。また、金井先生による中上健次への言及としては、「「母さんとやれよ!」」(in 『目白雑録2』*4)もマークしておく。
目白雑録 2 (朝日文庫)

目白雑録 2 (朝日文庫)

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050816 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061029/1162141462 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070116/1168966875 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070507/1178561806 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070902/1188716333 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080310/1205085875 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080901/1220239787 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090303/1236103778 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090707/1246991603 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091001/1254415874 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110710/1310272673 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150528/1432792757

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061020/1161371359 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070603/1180843922 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071206/1196911203 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100115/1263542817 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110713/1310486787 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110718/1310962569 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110913/1315843750 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130828/1377663839

*3:Cf. デリダ『尖筆とエクリチュール』[Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061022/1161490320 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090729/1248840543

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100916/1284660360