聖トマス『形而上学叙説』

形而上学叙説―有と本質とに就いて (岩波文庫)

形而上学叙説―有と本質とに就いて (岩波文庫)

数日前に、トマス・アクィナス*1形而上学叙説――有と本質に就いて――』(高桑純夫訳、岩波文庫、1935)を読了。


訳者序


序論
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章



聖トマス「De ente et essentia」解説

これはトマス・アクィナスの全部で69本ある「opuscula(小論攷)」の一つ。
「opuscula(小論攷)」について、訳者の高桑純夫は「聖トマス「De ente et essentia」解説」で、「或特殊な問題をとり出し、これに専門的な論究を加へて解明の視野を深化するもの」と定義している(p.95)。さらに、

(前略)この種のオプスクラの対象・課題は、神学・形而上学・論理学・政治学などの諸部門を含んでゐて、豊かな多様性を見せてゐる。ところが、このことが却つて、専ら神学的対象のみを扱ふ定期討論集(quaestiones disputatae)や、不定期随題討論集(quaestiones quodlibetales)などから、オプスクラを区別せしむる所以でもある。成立上の偶然な機縁によつて、かく総称されてゐるこの二種の討論集は、他の点から見れば、オプスクラと甚だ紛らはしい類似を示してゐるからである。次に、形態の上から見れば、所謂「スンマ」などに対して一層鮮明な特徴をもつてゐることが知られる。スンマは、綜論の意であつて、当時の神学者が、多くはその主著に冠した標題である。名の示す通り、綜合的・体系的な構造を具へ、例へば「神学スンマ」(Summa theologica)といへば、凡そ神学に関する可能な問題のすべてを集成することを意味してゐた。つまり、体系的なるは勿論、それと同時に百科全書的な性質をも具えてゐたわけである。当時の神学者は、階級的に上位を占め、政治家・理財家・学者などを一身に兼ねるもの多く、これら諸部門に対するそれぞれ専門的な関心をもつてゐたことは事実で、これがため、神学の研究と神への奉仕に専念しながらも、他部門のあらゆる問題は、神学との関聯に於て、すべて彼等の討究対象であつた。かかる教会―社会的情勢が、とりもなほさず、その主著をして綜合的ならしめたものと思はれる。(略)スンマが、かくの如く体系的・綜合的であつたのに対し、オプスクラは、これらスンマに含まるべき局部又は特殊問題をとりだして、これに専門的な攻究を加へ綜論に於て論じ尽くされなかつた点を拡大深化するを目的とするものであつた。従つてそのテーマの多岐に亙る所以である。スンマは体系として、いはばその著者の身上を世に問ふ著作であるが、オプスクラは、特殊問題のひたむきな深化を目標とするゆゑに、また同僚や学徒への教化的意義も多分に含められてゐたことは争はれない。(後略)(pp.95-97)
各章の冒頭に訳者によって、その章の要約が置かれているので、それらを書き出してみる。
第1章

この章は、有並びに本質なる名称によつて何が意味されてゐるかを明らかにし、本質を言ひ表はす名称の種々を検討する。(p.12)
第2章

この章は、実体の本質が、本来の意味で本質と呼ばれるに対し、遇有のそれは、相対的に爾か呼ばれること、単純実体の本質は、合成実体の夫れより、優越せるものなること、合成実体の本質は、質料でもなければ、また形相でもない、また、形相と質料との関係でもなければ、合成体の上に加増された或ものでもない、むしろ、合成体そのものであること、これども、合成体の定義のうちに現はれてくる質料は、個別化の原理たる「特定的質料」ではないこと、などを明らかにする。(p.15)
第3章

この章は、類・種・個体の本質が、最初に命名された名称によつて、あたかも概念の如く絶対的に、如何にして区別されるか、また、類・種・種差・定義が、如何なる理由によつて相互に相異なるか、最後に、どうして、種の本質は、個体に比せられるか、などを説明する。(p.21)
第4章

この章は。合成体の本質が、如何にして、類・種・種差であるかを、又は、これらの合成体に於て、何から、類と種差の概念が得られるのであるか、を説明する。(p.31)
第5章

この章は、単純実体の本質は、決して質料と形相とから合成されたものではなく、むしろ、ただ形相のみであることを明らかにし、之を更らに、合成実体の本質と比較考量し、単純実体は、本質と有からの合成体であり、叡知体は、神を能動因とすることなどを説く。(p.38)
第6章

この章では、神の本質とは如何なるものか、質料より乖離せる実体の本質とは如何なるものか、これらの実体にあつては、類・種差の概念は、いづれより得られるか、そして、如何にしてかかる実体は多数化せらるるか、などが問題とされる。(p.48)
第7章

この章は、偶有が不完全な本質しか有たぬこと、偶有は種々に区別されること、また偶有にあつては、類と種差との概念は、いづれから得らるるか、を説明する。(p.55)
「定義によつて言ひ表はさるるところのもの」という「本質」の定義(第7章、p.55)はシンプルにしてブリリアントであるが、もう一つの論題である「有」を巡って、第1章からメモしておく。
「十箇の類(カテゴリア)によつて区別さるところの有」と「諸命題の真理を言ひ表はすところの有」の区別;

(前略)これら二通りの有には差別がある。といふのは、第二の意味ですれば、それが、事物のうちに何物を定立せぬ場合でも、もし、其れに就いて肯定的命題が形成せられ得るならば、かかるものはすべて、有と呼ばれ得るからである。この意味で、缺如及び否定は、有といはれる。なぜなら、吾々は、否定への矛盾が、肯定であるといひ、また盲は眼のうちにあるといつてゐるからである。しかるに、第一の意味を以てすれば、事物のうちに、何物を定立するものにあらざれば、有とはよばれ得ない。それゆゑ、盲その他これに類するものは、第一の意味に於ては有でない。
ゆゑに、本質の名称は、第二の意味でいはれた有からは得られない。なぜならば、さまざまの缺如の例に於て明瞭なる如く、本質を有してゐない或物が、かかる意味では有と呼ばれるからである。そこで、本質はむしろ第一の意味での有から得らるるところのものなのである。(略)
(略)この意味での有は、十箇の類(カテゴリア)によつて区別さるるものなのであるから、本質とは、さまざまの有が、それによつて、さまざまの類と種のうちに配置されるところの性質のすべてに、炬通なる或物を意味してゐるものでなければならぬ。例へば、人間性(フマニタス)が、人間の本質であるが如きであつて、之と同様のことが、他さまざまのものに就いていはれるであらう。(pp.12-13)
これは、現代の用語法でいえば、本質存在と現実存在(実存)の区別に対応するか*2