正しさは複数あって

国立大学評価委員会「「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf


これに対する批判的なコメントとしては、


日比嘉高「国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出されるかもしれない」http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20140826/1409070263
隠岐さや香「教育系・人文社会系不要論の問題点について」http://researchmap.jp/jo06wpyog-44242/#_44242


を読んだ。
どちらの意見も十分に首肯できるものである。全ての「国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出される」のかということに関しては、私としては、隠岐さや香さんがいうように、「人文社会系」を取り込んだエリート大学とそれ以外の〈実学〉オンリーの大学という、かつての帝国主義本国と殖民地の区別に比すべき分断的階層化が導入されるのではないかということを、寧ろ危惧する。
ここでは、別の視点から「人文社会系」(及び理学系)の学問の存在を辯護してみたい。
大学では「社会的要請の高い」学問を研究・教育せよという人がいる。よろしい。しかし、社会には様々なカテゴリーの人々が犇めき合っているのであって、例えば老人にとっての「社会的要請」と小学生にとっての「社会的要請」、サラリーマンにとっての「社会的要請」と専業主婦にとっての「社会的要請」、金持ちにとっての「社会的要請」と貧乏人にとっての「社会的要請」は同じものだといえるのかどうか。だから、漠然と言われる「社会的要請」とは抽象的な統計的平均以上のものではないのではないか、という批判は可能である。しかし、今回言いたいのはそのことではない。以下、システム論をいい加減にぱくりながら議論していきたいのだが、現代社会は相互に独立した複数のシステムによって構成されている。相互に独立しているというのは、そのシステムを存立させているテロスが別のシステムのテロスに還元不可能だということだ。学問における〈真理〉、法律における〈合法性〉、宗教における〈救済〉、アートにおける〈美〉等々。これらは相互に還元不可能であり、また変換公式も存在しない。しかし、だからといって、これらは相互に無関係だということはない。科学が宗教にインスパイアされ、またアートが科学にインスパイアされるということは大いにあり得るだろう。ここで注意しなければいけないのは、あくまでも科学者は宗教を科学的に評価し、アーティストは科学を美的に評価するということである。だから、科学は宗教を歪曲しているとか、科学的基準は美的基準とは違うと今更言っても始まらない。というか、そんなのはそもそも当たり前のことなのだ。「社会的要請の高い」学問云々という話だけれど、これは学問の問題ではない。社会の様々な立場の人が〈真理〉の追求というテロスによって作動する学問から、自らにとって面白そうなネタ、使えそうなネタを如何にピック・アップするのかという問題だろう。如何にしてそうした情報処理の精度を向上させるのか。そのためには、日頃から学問に対する嗅覚を鋭敏にしておくこと。また主観的にも客観的にも選択肢を拡張すること。学問を短期的な「社会的要請」云々によって切り詰めることはその選択肢を切り縮めてしまうことでしょうという話になる。
ところで、英米の問題をベースにしているけれど、


Stanley Fish “The Value of Higher Education Made Literal” http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/12/13/the-value-of-higher-education-made-literal/


は、この問題を考える上で有用だと思う*1