松濤でも「狭山」

幼年 (講談社文芸文庫)

幼年 (講談社文芸文庫)

大岡昇平の『幼年』*1の、昔渋谷の道玄坂で「狭山茶」が栽培されていたという記述を読んで驚いたことは既に記した*2


(前略)今日の松濤町一帯は、もと紀州藩下屋敷だったが、明治五年鍋島藩が払い下げを受けて、大々的に狭山茶を栽培した。その時富ヶ谷の三田用水(下北沢で玉川上水より取水、東北沢、駒場、代官山を経て、目黒、二本榎*3に至る。目黒川、渋谷側の灌漑用水であるが、やがてエビスビール、目黒の海軍火薬廠に給水したので水は豊富であった)から水を引いて、茶を育てた。「松濤園」はその茶園の名で、後東海道線開通によって、静岡茶宇治茶が大量に東京に供給されるまでは、東京の銘茶の一つであった。(p.188)
「三田用水」の「三田」は慶応大学がある港区の三田ではなく、目黒区の三田。目黒区の三田については、丸谷才一「目黒三田論」(in 『月とスッポン』)*4も参照されたい。
月とメロン (文春文庫)

月とメロン (文春文庫)