「三田」の話の続き

承前*1

「歴史を訪ねて 三田用水 2」http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/tobu/mita2.html


大岡昇平の『幼年』でも言及されていた、「三田用水」沿いの「恵比寿ビール工場」や「海軍火薬工場」もそもそも「三田村」にあったという話。


三田用水を水力として利用した目黒火薬製造所*2は、明治13年に三田村に建設された。同所で作られた有煙火薬は日清、日露の戦争に使われ、発展していったが、周囲に人家が増え、昭和3年に区外へ移転した。跡地は、後に海軍省技術研究所、駐留軍のエビスキャンプ、返還後は現在の防衛庁技術研究本部第一研究所となった。

ビール1本造るには約20本分の水が必要という。明治20年日本麦酒醸造会社*3は、工業用水として三田用水を利用できるという立地条件から、三田村(明治22年、目黒村となる)に工場を建設した。

明治40年には、需要の激増から1日120石(約2万1,600リットル)のビールを確保するため、毎夜10時まで就業していたという。このように急速に発展した同社(明治26年日本麦酒株式会社)は、目黒村の経済に大きな潤いを与えた。反面、当時の選挙権は納税額によって制限されていたので、定員12人の村会議員のうち納税額のずばぬけて多い同社から4人が選出されたことなどから、日本麦酒の存在が村政に対して、大きな発言力も持っていたことがうかがえる。

幼年 (講談社文芸文庫)

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日本麦酒醸造会社」は現在の恵比寿「ガーデンプレイス」。(『東京から考える』における)北田暁大氏の「恵比寿」認識に疑義を呈したことがあったのだった*4
東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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