「さなぎ」(メモ)

魂の形について―エッセイの小径 (白水Uブックス)

魂の形について―エッセイの小径 (白水Uブックス)

多田智満子『魂の形について』*1から。


ところで、虫の幼虫、さなぎのことを、英語でラーヴァ(larva)、ドイツ語でラルフェ(Larve)、仏語でラルヴ(larve)というが、これらがいずれも怨霊、死霊、もしくは仮面の意味をもつことはすこぶる興味ぶかい。みなラテン語のラルウァ(larva)からきているが、元来このラルウァが仮面、怨霊、亡霊を意味することばなのである。(p.43)
そして、多田は「なぜ仮面や亡霊が同時に幼虫やさなぎでありうるのだろうか」と問う(p.44)。

毛虫からさなぎに、さなぎから蝶やとんぼに、――仮面をぬぎすてるようにして姿を変える虫類のめざましい変身は、古代人に輪廻転生の観念を暗示するものではなかったろうか。転生はインドだけの思想ではなく、ギリシアでもつとにオルペウスの信徒やピュタゴラス学派は霊魂の輪廻転生を信じていたから、キリスト教浸透の後もこれがヨーロッパの霊魂観の一つの異教的底流として存続したことはうたがいえない。
しかし、変身する以前の幼虫が、ただの無害な霊魂ではなく、怨みをふくんだ死霊を連想させたのはなぜなのか。おそらく蛆虫や毛虫、あるいは奇妙なさなぎの姿が、不吉なおぞましさを感じさせたからではないかと思うが、これは臆測にすぎない。少なくともラルウァの語に関するかぎり、この名辞をになった生きものがいかに仮面をぬぎすてたところで、本朝の〈あきつ神〉のような霊的なめでたさをもつことはありえないような気がする。いや、仮面をぬいで羽を生やすまでもなく、虫は幼虫、つまり芋虫のような恰好のまま、わが国では神たりえたらしいのである。大化改新の前年に、東国の大生部多なる者が、橘の木につく長さ四寸余り、太さ親指ほどの、養蚕に似た虫を常世神として祀り、富貴長寿の利益を与えるとして、この虫神を奉じて奈良の都*2へのぼってくるといさわぎがあったことが『日本書紀』に見えている。益田勝実氏著『秘儀の島』巻末の「古代の想像力」という論文を読んではじめて知ったことだが、丹後と越前には、それぞれ大虫神社、小虫神社という社があり、正体不明の虫神を祀っている。大虫の方は蛇、とかげの類であったかもしれないが、少なくとも小虫の方は昆虫――成虫も幼虫もふくめて――であったらしい。益田氏はこの小虫を橘の木に宿る芋虫神と関連させて、なぜ芋虫が神さまなのかといえば、芋虫のメタモルフォーシスが古代人の幻想を刺戟したのであろうという風に書いておられる。「自由に姿を変えるということは、それ自体が神異*3の実現です。変態した蝶が神異のものであれば、蝶に変じる芋虫も神異の存在ということになりましょう」と。(pp.44-45)
「幼虫、さなぎ」ということで、エリック・カールの絵本『はらぺこあおむし』と田中慎弥の短篇「蛹」(in 『切れた鎖』)をマークしておく。後者を読んだときは、〈観念〉で小説書くのはやめろ! と思ったのだった。
はらぺこあおむし (ミニエディション)

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切れた鎖 (新潮文庫)

切れた鎖 (新潮文庫)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140726/1406396684

*2:??

*3:「あやし」というルビ。