「タミエ」の「海」

abさんご

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黒田夏子abさんご*1だが、芥川賞を受賞した表題作よりも一緒に収録されている「タミエ」という幼女を主人公にした初期の短篇たちのほうが好き*2。例えば、「虹」の、


大勢連立ってしか遊ばない子供らにとって海はそんなに怕いものではない。近くに住んでいる子供らでさえ、大方は晴渡った夏の海しか知らない。海は泳ぐためにあるのだ。泳ぐための海なのだ。タミエの街からちょっと別区劃になっている漁師村の子なら、或いは別の海も知っていようが、彼らだってたった孤りで来るわけではない。そして、仕事すると遊ぶというのは逆のようでも、要するに海は何かするためのものであり、それのできない海は海でなく、いつそれができるかを予測するためでなければ眺める値打ちもないのである。せいぜい貝殻蒐めの春の海、別荘の女たちの朝夕の散歩、絵描き、写真家、深入りした海賊ごっこ。でも、目的を持ち仲間を持った者の前に、海はその本当の怕さを打付けては来ない。彼らはただ夏毎の数人の溺死人の、蓆から覗く白い蹠に、遙か海の怕さを推し量るだけだ。タミエのように、泳ぎもせず拾いもせず、潮風が健康にいいというためでもなく、黙って、孤りで、海と向合いに来る者だけ、海はその決して美しくない、気味悪く移り気な変幻自在の貌を見せた。全く、海は碧いなどいう嘘を、誰が考え出したものだろう。(pp.40-41)
というパラグラフとか。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130909/1378689034

*2:といっても、「abさんご」が悪いというわけではない。