「ケインズを専攻する経済学出身の教授」

先生とわたし (新潮文庫)

先生とわたし (新潮文庫)

四方田犬彦『先生とわたし』*1からメモ。
「当時」というのは、1983年に由良君美が東大駒場の英語科主任になった辺り。


当時の英語科には酒の上で有名な豪傑が二人いたという。一人はケインズを専攻する経済学出身の教授で、酒場で呑んで激昂するとただちに目の前の相手に酒を振りかける悪癖をもっていた。やがて彼は別の大学へ移っていき、まもなく病死した。もう一人が由良君美で、彼は普段はもの静かで紳士的な人物であるが、何かの拍子にその逆鱗に触れてしまうと、大変な怒りを引き起こしてしまうのだった。大概の教師は授業がない日は研究室に足を向けない。だが由良君美は、あたかも自宅に帰っていないかのように、いつでも駒場の構内を徘徊していた。深夜に酔って、木刀片手に歩いているさまを見て、学生たちは恐怖した。
(略)上島*2は、由良君美の大酒の一因は、英語科主任という任務の重さに耐えかねたところにあったのではないかという。というのも、英語科のなかで酒席で大暴れを繰り返していた二人の教授は、ともにそのポストにいることの居心地の悪さを感じていたという点では共通項があったからである。先に述べたもう一人の教授は、同じ駒場でも社会学科で教鞭を執ることがかなわなかったことに不満を持っていた*3由良君美は東大英文科出身ではないことから来る孤立感に悩んでいた。駒場の同僚がそのことを根拠に、陰湿な苛めや差別を意図的に行なったということは、リベラルな空気からしてまずありえないことである。だが駒場で育ち、最初から駒場で教鞭を執っている者が談話しているところに、由良君美が突然に入ってきて、なんとなく話が浮いてしまうという瞬間は、少なからずあったはずだ。自分たちの気づいていなかったところで、由良君美が傷ついたり、また精神的な重圧を感じていたということはありうる。でなければ「駒場の外部から到来した二人の教授だけが、揃いも揃って大酒家と化したという説明がつかない。由良君美は繊細な感受性をもっていた。彼は駒場出身でないにもかかわらず主任という重職を宛がわれてしまったため、一時的とはいえ精神に均衡が保てなくなってしまったのではないだろうか。もちろん原因はそればかりではないだろう。大学院で昼間に教えを請うだけの弟子には想像もつかない心労が、公私にわたって複雑に重なり合っていたはずである。(pp.209-210)
この「 酒場で呑んで激昂するとただちに目の前の相手に酒を振りかける悪癖をもっていた」「ケインズを専攻する経済学出身の教授」って、早坂忠? Wikipediaには(東大を)「1990年3月、定年を待たずに退職し、4月より学習院大学経済学部教授、1992年5月、退職。1995年、叙正四位、叙勲三等授瑞宝章」とある*4。1990年から1995年の死まで5年。「まもなく病死した」といえるのだろうかと疑問には思った。 早坂忠といえば、彼が編者となった『経済学史』(1989)という本を持っていたということを思い出したのだが、この本は経済学史のテキストとしてはけっこう広く使われていたのではなかろうか(さすがに今はもう使われていない?)。「早坂忠」を鍵言葉にして検索をかけたら、小谷野敦氏の「由良先生のこと」があった*5。これは雑誌掲載時のコメント。その中で、由良君美の「奇行は、いわゆる「中沢事件」の時に西部先生が暴露していた」と書かれている。あの当時西部邁由良君美に関するアレな噂をしているのを読んだことはあるのだが、どういう媒体のどういう記事だったのかというのは、忘れてしまった。
経済学史―経済学の生誕から現代まで (Basic Books)

経済学史―経済学の生誕から現代まで (Basic Books)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130924/1380045500

*2:島健吉。宮崎純という方が『先生とわたし』に触れつつ、「由良氏の同僚として名前のでてくる上島健吉というひとには駒場で習ったような記憶がある」と述べている。http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20110613/1307979559

*3:社会学科」は経済学科の間違い? 経済学者が「社会学科」で教えることを希望するか。

*4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%9D%82%E5%BF%A0

*5:http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070213