雨乞いの痕跡

『読売』の記事;


落書きと思っていたら、江戸時代の雨乞い記録

 国の天然記念物に指定されている山口県美祢市の鍾乳洞「景清洞(かげきよどう)」*1に、江戸時代の雨乞いとみられる記録が残されているのを、同市の元高校教諭蔵本隆博さん(64)が見つけた。

 研究成果を県内の地方史研究誌で発表した蔵本さんは「水が湧き出る洞内が雨乞いの地となった可能性を示す貴重な資料」と話している。

 県立高の校長も務めた蔵本さんは、国語の教諭時代から、ライフワークとして県内外の祭事や遺跡などを研究してきた。美祢市秋芳町秋吉出身で、幼い頃から景清洞を何度も訪れ洞内の文字に気づいていたが、「落書きと思っていた」という。

 何かの資料ではないかと思い始めたのは約3年前。秋吉台について学ぶ美祢高の生徒と一緒に、頻繁に洞内に入り、「雨請」「雨乞」などの文字のほかに、江戸時代の年号が記されていることから、当時の人が雨乞いの記録として残したものではないかと推測した。

 蔵本さんは、炭のようなもので書かれたこれらの文字を「壁書(へきしょ)」と命名。「延享四年 卯七月五日 赤村上郷 八十八人 雨請ニ通」などと書かれた計28か所の壁書の解読を進めた。

 うち16か所で、▽「雨請」「雨乞」の文字▽「美祢郡赤村」など美祢郡の地名▽ほとんどが夏季に10〜88人の集団で入洞した記述――などが読み取れ、年号は干ばつの記録と一致した。

 こうした結果から、蔵本さんは16か所は雨乞いに関する記録と判断。今年6月に「山口県地方史研究」(山口県地方史学会発行、第109号)に論文を発表した。

 景清洞は、1962年に観光施設として開発されるまで、大量の土砂があり、途中から腹ばいで進むほど狭く、足元が見えないほど暗かった。蔵本さんは「雨乞いは水が湧き出る場所で行われたため、景清洞が雨乞いの地となった可能性がある。たいまつを頼りに狭くて暗い鍾乳洞に入るほど水不足が深刻だったのだろう」と推測する。

 壁書は、水で流れるなどして、字の判読が難しくなっているものもある。蔵本さんは「壁書は歴史の証人。観光の目玉にもなるので、しっかりと保存してほしい」と訴えている。(清島愛)
(2013年9月24日10時51分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130924-OYT1T00262.htm

文字のきわめて本源的な使用法だという感じもする。甲骨文も占いの記録であったわけだ。
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将・平景清が潜んでいた」*2から「景清洞」というのね。「雨乞い」は多くの場合龍王龍神)と結びついているけど*3、「景清洞」には「平景清」(正しくは藤原景清)のほかに龍神系の伝承がある(あった)のだろうか。勿論、能や歌舞伎の世界では大活躍の「景清」は相当の霊験を有しているのだろうけど。