「酋長」(メモ)

上村英明先住民族 「コロンブス」と闘う人びとの歴史と現在』(1992)からメモ。
1989年6月20日に放映されたNHKスペシャル立花隆の思索紀行・南米・失楽の500年』の第1回「アマゾン燃ゆ」の中で、「アマゾンで生活する先住民族のシャバンテ人を訪ねた」立花隆が「何度も「酋長」という言葉を繰り返し」、それに対して「北海道ウタリ協会」が「「少数・先住民族」に対する差別と偏見を助長する恐れがある、として抗議した」こと、立花隆は「酋長という言葉を使ったというだけで、無差別に攻撃するというのはおかしくないか」と反論したという(pp.234-235)。
また、


北海道ウタリ協会は、従来から「酋長」という言葉の使用をやめるよう訴えている。一九八二年に、利尻島観光協会が島内の奇岩を「酋長の岩」と命名し、当時の北海道知事が碑銘を書いたことが問題となり、協会の抗議で取り止めるという事件が起きた。この時以来、北海道ウタリ協会は「酋長」の代わりに「首長」、「村長」、「集落の長」などという表現をとるように再三申し入れてきた。しかし、この申し入れは、国内での先住民族の権利問題に関心が低いマス・メディアや研究者の間では、いまだに理解されていない。特に、民族学や人類学に携わる研究者や学者の多くがこの問題に無関心なのは残念だ。(p.237)
さらに、

(前略)フジテレビは、一九九二年二月二三日に放映した、ミクロネシア連邦ヤップ島の先住民族のルポに「老酋長グアヤンの伝説」という表題をつけた。
また一九九一年九月に岩波書店が地球環境保護をテーマに出版したジョナサン=ポリット編の『地球を救え』という本でも先住民族からのメッセージが紹介されたが、Chief Gary Pottsという人の詩を紹介してこの英語に「ゲーリー・ポッツ酋長」という訳を対応させた。(後略)(pp.237-238)
日本語において「酋長」という言葉が「未開」とか「野蛮」というイメージを喚起することはたしかだろう。しかしながら、どのようにして「酋長」という言葉が差別的な意味を賦与されてきたのかについての説明はない。因みに現代漢語では「酋長」というのは英語のchiefに対応する言葉として全く問題なく流通している。
その後に、「旧土人保護法」を巡って呉智英が「土人」という言葉を擁護した事件*1が採り上げられている(pp.238-240)。ただ「『朝日ジャーナル』誌上にある評論家からの投稿が掲載された」というふうに、〈匿名〉扱いである。これは何故だ?