「志向性」から「相互主体性」へ(メモ)

承前*1

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

浜田寿美男「還元としての子供――「私」というものの発生の手前で」の続き。
「目」について;


人の目はただの眼球ではない。自分自身がみずからの目を通して外の世界に向かっていると同時に、私たちは他者の目の外の何かに向かう主体を感じとってしまう。そこにあるのは単なる物体としての眼球ではなく、主体を生きる目なのである。なぜそうなってしまうのか、その理由を私たちは知らない。ただ他者の目が私自身にとってもう一つの主体として現象するということ自体は、否定しようのない事実である。もちろん、これを物体として見ることができないわけではない。現に眼科医は、患者の目を眼球として見る。彼はそこで、主体のまなざしを見るという、ごく日常的な対人態度を封鎖する。そうした客体化の構えをあえてとらなければ、人は容易に相手のまなざしに囚われてしまう。(後略)(p.175)
「目が合う」について;

目は外のものに向かい、外のものをとらえようとする。そしてこの目がもう一つの目に出会ったとき、そこでは二つの目が向き合い、互いに相手からの向かう力を受けとめあう。そうして眼球というただの白黒の図柄パターンに、人は向きを感じ取り、眼差しが自分の方に向かっていると感じる。人はこれを端的に「目が合う」というのだが、なぜそのようなことがおこるのかと問われても、私たちにその答えはない。「そうなっているのだ」と言って、この心的現象をただただ追認する以外にない。(略)志向性(外のものに向かう)の奇跡と同様、私たちはその根拠をそれ以上に追うことができないのである。
しかしこの奇跡にも、それを可能ならしめる条件は存在する。目を見開いても外のものを外のものとして見ることのない(少なくとも外からはそうとしか見えない)子どもがいるように、今度は外のものを外のものとして見るようになったのち、その目が、その外に登場するもう一つの目に対して、それをまったくの眼球としてしか見ていないようにみえる子どもがいる。私たちは生きた目に出会ったとき、それを眼球(つまり客体)として見ることがきわめて難しい。しかし彼らは逆に、その目に主体性を見ることがむしろ難しいのである。(p.176)
それは「早期幼児自閉症(early infantile autism)」の子ども。この人たちは「人の眼差しを避けている」というよりも「人の目に眼差しを見て取るという、そのこと自体に障害を帯びているのではないか」という(p.177)。また、

(前略)死体の手を握ったとき、私たちはそこにただの肉塊しか感じることができない。しかし生きた人間の手を握ったとき、そこにあるのはただの肉塊ではない。またただ生き物としての反応が返ってくるというだけでもない。私たちは手を握り合うとき、握る自分の手に、握り返される力を感じる。平たく言えば握られていることを感じる。この「握られる」という受動の感覚のなかに、私たちはおのずと相手の「握る」能動を、つまり相手の主体性を捉えている。しかし自閉症の子どもたちは、この手を握り合うということもひどく苦手なのである。それは人を避けているからではない。彼らは必要があれば、人の手を持って自分のやりたいことを人にやらせようとする。たとえば水道の水で遊びたいとき、そのあたりにいる大人の手をつかんで水道のところにまで連れていき、蛇口をひねらせようとする。ただしそのとき彼らは、相手の身体をただ道具のようにそこまで持っていくだけであって、相手の目を見て要求を伝えることもなければ、声で訴えることもない。ちょうど物を持ち上げるクレーンを操作しているかのようなので、人はこれをクレーン現象などと呼んだりする。(ibid.)
「志向性」の交叉としての「相互主体性」;

眼球に生きた目を見、そこに眼差しをとらえる。触れた手に生きた相手を感じ、その手を触れ合わせ、握り合わせる。こうした現象の成り立つ根拠を私たちは知らない。身体どうしが出会ったとき、そうなっているというしかないかたちで、身体の間にはおのずと志向性(主体性)がやりとりされるのである。これこそが相互志向性、あるいは相互主体性そのものである。しかし、このように私たちに根拠のみえないかたちで生じてしまうこの現象が、身体の働きに支えられていることもまた否定できない。そして、この身体が壊れやすいなまものであってみれば、身体の働きによって支えられた心的現象もまた壊れうる。自閉症の子どもたちのように、私たちから見て奇妙な行動を表す子どもいることもまた、身体をもつ人間の一つの自然と言ってよいのである。(pp.177-178)
「眼差し」の中に生まれ落ちるということ;

(前略)子どもの目に眼差しがこもりはじめたとき、大人の側からもまた、自分に向かって眼差しを注ぐ子どもの目に引き寄せられる。いやそれ以前のところで、大人たちはまだ眼差しの力のこもり切らない子どもの眼球にしきりに眼差しを求めている。そうしてそこに眼差しが兆すやいなやそれを敏感に察知する。それが「目が合う」ということなのである。手が触れ合い、身体が触れ合う。あるいは仕草を交わし、声をかけ合う。こえらもまたすべて、主体どうしの相互のやりとりであり、そうした相互志向性の網の目が子どもの育ちのごく初期から張り巡らされる。というより、そもそもそうした網の目が縦横に張り巡らされている人の世に、どの子も産み出され、やがてその網の目に絡まれて育っていくのである。ただ(略)この相互志向性の網の目にうまく適応できない子どもたちもまたいて、これもまた壊れ物としての人間には避けがたい自然であるのだ。(p.178)
そういえば、俺は「目が合う」ということが苦手で、これまでに話をするときは相手の見ながらしろと何度叱られてきたことか。