「三項関係」と「意味世界」への参入(メモ)

承前*1

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

浜田寿美男「還元としての子供――「私」というものの発生の手前で」の続き。


(前略)目を合わせ、触れ合い、抱き合い、声をかけ合い、表情を交わし合う。そうした二者間の直接的なやりとりの間に一つの「もの」が介在する。そのとき一方がそのものを見たとすれば、他方はその相手の視線を追う。たとえば母は、子の視線が何かにそれたことに気づいて、その視線を追い、その子の目が捕らえたものを自分も見る。母は子どもの眼差しがまだ何に向かっているのか定かでない頃から、その目に眼差しを見つけようとするくらいである。いったん目に眼差しの力がこもってくると、始終子どもの視線の向かうところに気をやるようになる。そして子どもの方でもまた、母としっかり目を合わせられるようになったのち、母の視線の向かうところに目を運ぶようになっていく。その結果、母と子の相互の間で、相手が見るものを自分も見るという関係が生まれる。ものを介在させない先の直接的な二者関係を対人二項関係と呼ぶとすれば*2、これはものをはさんでの三項関係である。この三項関係こそは、赤ちゃんが単なる感覚運動的なものの世界から意味の世界へと展開していく、一種のオルガナイザーなのである。(pp.180-181)
「三項関係」ということだと、シュッツのAufubau第4章における、「社会的直接世界」を巡っての、「1羽の鳥が飛ぶのを私と君が見つめる場合、まず「鳥が飛ぶ」という私の意識の中で構成した対象は私にとって自己解釈によって把握できる1つの意味を有し、また君も同じことを「鳥が飛ぶ」という君が構成した意識体験によって言明することができる」(p.247)から始まる叙述を参照のこと。
社会的世界の意味構成―理解社会学入門

社会的世界の意味構成―理解社会学入門

またハンナ・アレントが『人間の条件』第7節で世界存立の条件としての「もの(things)」について語っている部分;

(...)the term “public” signifies the world itself, in so far as it is common to all of us and distinguished from our privately owned place in it. This world, however, is not identical with the earth or with nature, as the limited space for the movement of men and the general condition of organic life. It is related, rather, to the human artifact, the fabrication of human hands, as well as to affairs which go on among those who inhabit the man-made world together. To live together in the world means essentially that a world of things is between those who have it in common, as a table is located between those who sit around it; the world, like every in-between, relates and separates men at the same time.
The public realm, as the common world, gathers us together and yet prevents our falling over each other, so to speak. What makes mass society so difficult to bear is not the number of people involved, or at least not primarily, but the fact that the world between them has lost its power to gather them together, to relate and to separate them. The weirdness of this situation resembles a spiritualistic séance where a number of people gathered around a table might suddenly, through some magic trick, see the table vanish from their midst, so that two person sitting opposite each other were no longer separated but also would be entirely unrelated to each other by anything tangible. (pp.52-53)
また”presence of others who see what we see and hear what we hear”という公共性に関する簡潔な定義(p.50)。
The Human Condition

The Human Condition


浜田氏のテクストに戻って、「表情理解」について;

その点を理解するためには、実に不可思議なもう一つの奇跡が人間には成り立っていることを見ておかなければならない。それは、人が相手の身体のとる姿にその人の表現を読み取ってしまうという特性をもっていることである、目を合わせ微笑むと、赤ちゃんの方でも微笑み返す。また赤ちゃんが微笑みつづけているところでこちらが表情を変えて、無関心な仕草を示すと、やがて赤ちゃんも冷めはじめ、やがて渋い顔になって、泣き出す。赤ちゃんは明白に相手の表情を捉え、それを正しく理解しているのである。しかしよく言われるように、人は自分自身の表情やそのときの感情を自己受容感覚を通して内側から知るしかないのに対して、相手のひょじょうは目による外受容感覚によって外側から捉えるしかない。内側から知った自分の表情や感情と、外側から捉えた相手の表情や感情とを人はどのようにして重ね合わせ、その異同を知ることができるのか。この表情理解の問題は、古くから個体レベルの能力論では解けないアポリアとして認識されてきた。この点については種々の議論があるが、ここでは、人の身体には最初から類として他の個体を予定した行動が組み込まれている、そういうものだと開き直って考えておく。個体レベルの行動メカニズムを越えて、人は類のレベルで互いに感応するようになってしまっている。これまた一つの奇跡の現象だと言っておかしくない。
身体は単に様々の講堂を可能ならしめる道具的な基盤ではない。むすろそれは、人と人との間で相互に表現体として機能し、互いにその身体の姿勢、その置かれた状況を写し合う。相撲を見ている観客は自分が相撲を取っているわけでもないのに、思わず自分の身体を力ませる。レモンの酸っぱさを知っている人は、誰かがレモンをかじろうとするのを見たとたんに自分自身の口をすぼめ、口のなかに唾液がしみ出てくるのを感じる。あるいは崖の淵から身を乗り出している人を見ると、自分はまったく安全なところにいるにもかかわらず、ひやっとして身が縮む思いを禁じえない。そうした例をあげれば切りがない。これもまた類としての人間がもともともっている共同性の表れにほかならない。
筋肉のレヴェルにおける同調作用については市川浩『精神としての身体』をマークしておく。また安部公房が演劇は頭ではなく筋肉で感動するものだということを何処かで語っていたように思う*3
精神としての身体

精神としての身体

ミメーシス*4と「意味世界」への参入;

そうした身体の写し合いの現象が本源的なかたちで赤ちゃんのなかにもあるがゆえに、母と子が見つめ合い、抱き合い、触れ合っているその間に「もの」が入ったとき、二人はそれを「一緒」に体験する。そしてこの三項関係をとおして互いに体験している世界を写し合うことになる。そのことが子どものその後の育ちにとって決定的とも言える重大な意味をもつ。
子どもと一緒に一つのものを体験する母は、すでに何十年かを生きてきたなかで、周囲のほとんどのものの意味を知りつくしている。それゆえにその「もの」の意味にふさわしいふるまい方をする。コップはただの光る硝子ではなく、飲み物を入れる容器として、本はただの四角い紙の束ではなく、絵を眺め物語を楽しむものとして、そしてミニカーはただの色付けした金属の塊ではなく、人を乗せ荷物を載せて運ぶ車の模型として……。あらゆるものを単なる物理的な刺激を越えた、社会的・文化的意味づけの下に捉え、またそれに相応したふるまい方をする。母にとってそれは、あえて言うまでもないほど自明のことである。しかし、それらのものにはじめて出会う子どもにとっては、もちろんその意味はまだ不明なままである。したがって子どもたちはそのものに対してただ物理的・生理的な意味のままにふるまう以外にないのだが、そうしつつも他方で、この三項関係のなかで母のその「もの」への見方、触れ方、感じ方、ふるまい方、あやつり方を見、やがてはそこに自分の身体を重ね合わせ、そのことを通して母のもつ意味世界をなぞり、自分の身に染み込ませていく。かくして子どもにとってコップがコップになり、本が本になり、ミニカーがミニカーになり……。子どもは母たちと同型の意味世界を自分の身体の周辺にはりめぐらせるようになるのである。(pp.182-183)
ミメーシスを巡っては坂部恵『〈ふるまい〉の詩学』をマークしたいのだが、この本、なかなかに難しい本ではある。
〈ふるまい〉の詩学

〈ふるまい〉の詩学