「独裁」(par ヴァレリー)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

橋下徹が「独裁者」か否かという議論あり*1
ポール・ヴァレリーの「独裁という観念」、「独裁について」というテクスト(何れも1934)からヴァレリーの「独裁(dictature)」についての(或る種のシステム論的)考察を抜粋。きわめて大雑把にいえば、「独裁」(「独裁者」)への欲望とは複雑性からの逃走であり、単純化への欲望だいうことになる。
「独裁という観念」から;


独裁が想像裡に描かれるようになるのは、精神が出来事の推移に権威・連続性・統一を認められなくなったときである。反省的意志〔の存在〕と組織された知識の統御の標識であるその三つのものが認められないと、精神の反応は必然的に(ほとんど本能的に)独裁を想い描くのである。(p.389)

要するに、精神が自分を見失い、――自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、――政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことでできなかうなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事象に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ。
あらゆる政体、あらゆる政府はこうした精神による判断にさらされる。権力の取る行動あるいは無策が、精神にとって、あり得ないようなものに思われ、自らの理性の行使と矛盾するように思われると、たちまち、独裁の観念が姿を現す。
そもそも、独裁が確立され、独裁者の思考力がその政治力と見合うものになると、精神は、二重の至高権を付与されて、自らが変革の主導権を手中にしている社会システムを出来る限り分かり易いものにしようとするのだ。(p.390-391)

(前略)精神は、《人間》を問題にする場合、それを自分が行う組み合わせに算入できる存在に還元するほかない。なんらかの《理想》(秩序、司法、国力、繁栄……に関わる)を追求し、人間社会を、自らその成員となることが容認できる社会に作り上げること、それを可能にするために必要十分な特性だけを抽出するのである。独裁者の内部には芸術家がいるし、彼の抱く概念の中には美学者がいる。だから彼は自分の持つ人間資材を加工し、変形し、自分の計画に使えるようにせずにはいられないのだ。他者が抱く観念は刈り込まれ、練り上げられ、統一されなければならない。他者の《素直さ》は狡猾に利用され、何にでも応えられ、すべての反論をあらかじめ封じこめてしまうような、単純かつ強力な公式を身につけさせなければならない。彼らの感情も手直しされ、教育されなければならず、礼儀作法にいたるまで、改変されなければならない、etc(ただし、精神が追求する作品が、追随者の過剰な服従や惰性で、台無しにならないためには、彼らに残された主導性を拒絶したり、破壊したりしてはならない。)
かくして、どんな場合にも人間と対立する(政治的)精神、人間に自由・複雑さ・不安定さを認めない精神が、独裁体制下では、最大限に発達するのである。(pp.393-394)

世論が権力の行動ないし無為に対して、どうにも理解できないと訝りはじめるや否や、独裁の観念が頭をもたげる。したがって、独裁者というのは内心で権力を自分が担わなければならないと思いこんだ人間なのかもしれにあ(そして、実際、しばしばそうである)、――ちょうどあまりに拙劣な劇の観客が憤慨して大根役者を押しのけ、自分がその役を演じるようなものだ。権力を握ると、独裁者は、多くの人の頭の中に潜在的ないしは発生状態で存在する独裁政治のあらゆる要素や芽を、自分の思念の中に凝縮する作業を推し進める。彼はそうした独裁政治の要素を自分に委ねないすべての者を排除ないしは疎外する。そして彼は唯一の自由意志、唯一の全体思想、唯一の完全行動の行使者、精神のあらゆる特性と特権の唯一の享受者となり、彼の前には、――個人的な価値がどんなに高くても――一様に手段ないしは素材の位置にまで矮小化された途方もない数の人間がいるのだ、――というのも、知性がその対象として採用するのは、すべて、手段か素材であって、それ以外の名前は存在しないからだ。(pp.395-396)
「独裁について」から;

飢えが御馳走の幻影を生み、渇きが清涼なる飲料の幻影を生むように、危機の到来を不安な気持を抱えて待ち、危険を予感していると、権力が行動するのを見たい、権力の行為を理解したいという気持になって、大方の人が心に、何か強力かつ迅速で、あらゆる既存のしがらみ、消極的な態度から解放された行動を想い描くようになる。そうした行動は一人の人間だけがよくなし得るものである。目的や手段をはっきり見定め、観念を決断に変え、遺漏のない調整をすることができるのは、一人の人間の頭の中においてでしかない。要因を同時的かつ相互的に判断し、断固たる決断をするような場合、複数による合議ではけしてできないものがある。だから独裁制が敷かれ、「唯一者」が権力を握ると、公的事業の運営は、徹底的に、よく考えられ凝縮された意志の徴を反映し、一人の人物のスタイルが政府のあらゆる行為に刻印されるようになるのだ。一方、国家は、顔も特徴もなく、非人間的な観念的存在、統計や伝統に基づき、ルーチンワークないしは果てしない試行錯誤で動く抽象的産物になってしまう。(p.399)

独裁者についに行動の一切を取り仕切る唯一の者となる。彼はすべての価値を自分の価値に吸収し、あらゆる見解を自分の見解に還元する。他者は自分の考えの道具であり、自分の考えをみんなが最も正しく、最も洞察力に富んだものと信じてくれるものと考える。というのも、混迷し、社会が錯乱したときに、自分の考えが最も大胆で、好ましいものであることが分かったからである。彼は無能力化し、腐敗した政体に揺さぶりをかけ、見下げた無能者たちを追放する。同時に、不整合や遅滞、意味のない問題を生み出し、「国家」の原動力の足かせとなるような法律や習慣を止めさせる。そのようにして放棄されるものの一つが自由である。多くの人が自由の喪失に容易になじむ。はっきり言うと、自由とは国民に提起できる諸々の試練の中で最も困難なものである。自由でいられるという能力は、すべての人間、すべての国家に平等に与えられていない。したがって、その能力を基準に、個人や国家を分類することも不可能ではないだろう。さらに、我々の時代における自由は、大部分の個人にとって、見かけでしかなく、それ以外には考えられないものである。本質上この上なく自由な「国家」であっても、個人の生活を今ほど細かく把握し、定義し、限定し、調査し、加工し、記録することはかつてなかったことである。さらに、生活の一般システムが今日ほど人々に重くのしかかることもかつてなかった。時刻表や感覚に働きかける物理的手段の発達、スピード本位や模倣の強制、《大量生産》の行過ぎ等々によって、人々はある種の組織で作られる製品のように、趣味や娯楽にいたるまで、互いに似たりよったりの存在に還元されてしまった。我々はある種の機能の奴隷である。共通機能がもたらす弊害は増加の一途をたどるばかりだ。(後略)(pp.400-401)

いずれにしても、独裁制が敷かれると、国民組織が単純な分業形態に集約されることになる。一方で、一人の人物が精神の高級な機能のすべてを引き受ける。彼は《幸福》、《秩序》、《未来》、《力》、国体の《威信》に責任を持つ。それらはすべて、権力の統一、権威、連続性のために必要なものであろう。独裁者はあらゆる領域に直接介入し、あらゆることに絶対の権限を持って裁定を下す権利を自分のために取っておく。他方、残余の個人は、個人的な価値や能力がいかなるものであっても、道具ないしは道具の加工材料の地位におとしめられる。この素材としての人間は、適当に差異化されて、《機械的行為(automatisme)》全体を担当させられるのである。(p.402)
ヴァレリーは「独裁制といったところで、政治的に最も自由な国で、現代人が多少なりとも意識的にその犠牲になっている抑圧・連携システムを、極限まで、推し進めたにすぎない」(p.401)、それはラディカルな〈近代〉にすぎないとも述べているのだが*2、さらに遡って、(例えば)ヤコブ・ブルクハルト(『イタリア・ルネサンスの文化』)が見出したルネサンス精神(工藝品=アート作品としての国家!)の歪んだ表出とも言えるのではないか。というわけで、ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』をマークしておく。また近代思想における「作る」という構えについては、今村仁司*3の『作ると考える』。なお(ヴァレリーのいう)「独裁」はハンナ・アレント的な視点からすれば、「政治」の否定にほかならないことは明らかだろう(See 『人間の条件』)。
イタリア・ルネサンスの文化 上   中公文庫 D 12-1

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レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2)

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