Force/Violence

アイザイア・バーリン「ジョルジュ・ソレル」(田中治男訳)*1(in 『反啓蒙思想 他二篇』、pp.203-287)から。
ソレルにとって、「力(force)」と「暴力(violence)」は対立するものであった。


労働者の武器は暴力であった。それはソレルのもっとも有名な書物(略)にその題名を与えたのであるが*2、その性質は決して明確になっていない。階級闘争は社会の正常な状態である。そして、生産者、すなわち労働者に対しては搾取者によって絶えず力が行使されている。力は必ずしも公然たる強制から成っているわけではなく、制度を手段とした統制や圧迫から成り立っている。これらの制度は、意図されていると否とを問わず、マルクスおよび彼の弟子たちが明快に示したとおり、所有者階級の権力を助長する効果を有している。圧迫に対しては必ず抵抗が生ずる。力によって力に抵抗することは、ジャコバン革命の例にみられるように、ひとつの軛を他の軛に代え、古い主人の代わりに新し主人をもってくるだけの結果になる可能性が大きい。ブランキ主義的蜂起は国家によるたんなる強制――プロレタリア独裁、恐らくは資本家独裁の継承者として現われたプロレタリアートの代表者たちによる独裁をもたらすだけであろう。教条的革命家は容易に抑圧的暴君になる。このテーマは、ソレルと無政府主義者たちとに共通している。カミュサルトルとの論争*3。のなかでこの論点を再生させた。力は、定義上、抑圧する。これに対して向けられた暴力は解放する。資本家のうちに恐怖を浸透させることによってのみ、労働者は彼ら資本家の権力、労働者に対して行使された力を打破することができるのである。
これが実際、プロレタリア的暴力の機能である。これは攻撃ではなく、抵抗である。暴力は鉄鎖を打ち落とすことであり、再生への序曲なのである。暴力なしにも、より理性的な生活、よりよい物質的条件、より高い生活水準、安全、さらには労働者、貧民、被抑圧者のための正義を確保することは可能であるかもしれない。しかし、生活の革新、若返り、創造力の解放、ホメロス的単純さ、旧約聖書の崇高さへの回帰、初期キリスト教の殉教者、コルネイユ的英雄、クロムウェル鉄騎兵隊、フランス革命軍などの精神への回帰――こうしたことは説得だけでは達成できず、自由の武器としての暴力がなければならないのである。(pp.260-261)

暴力の行使が実践の上でどのように力の行使から区別されるのかということは明らかにされていない。それはただ、労働者と雇用主とに等しく共通な共同善を前提することによって階級闘争の現実を否定する平和的交渉に対する唯一の代替物として要請されているにすぎない。マルクスもまた、プロレタリアートを旧世界の汚物から純化し、新しい世界に適合したものにするために、革命が必要であると語った。ゲルツェンは清浄効果をもつ革命の嵐ということを述べた。プルードンバクーニンも同様に黙示録的な言葉で語った。カウツキーさえ、革命は人間を堕落した状態からより高揚した生活観にまで高めると明言している、ソレルは革命という観念にとりつかれていた。彼にとって、革命的暴力に対する信仰と力に対する憎悪とは、まず第一に、労働者の厳格な自己隔離を伴うものである。ソレルは、どんな程度にせよ階級敵と協力することを容認するプロレタリアは自分自身の立場を失ってしまうとする点で、労働組合集会所(職業紹介所、労働組合委員会、戦闘的労働者の社会活動ならびに教育のセンターを独自の仕方で一緒にしたもの)のサンディカリストオルグたちと熱烈に一致していた。責任感ある人間的な雇用主とか、穏健で平和愛好的な労働者とかについて語られるすべては、彼に気持ちを悪くさせるだけである。労資をともに含んだ利益分配のための工場協議会とか、すべての人間を平等に認めるデモクラシーとかは、大義名分に致命的な傷を与えるものである。全面戦争においてはどんな友好関係もありえない。(pp.261-262)

(前略)[暴力は]工場占拠、権力掌握、警察その他所有階級の権力機関との物理的衝突、流血などを意味しているのだろうか? ソレルは明確さを欠いたままである。(略)戦闘性を増大させるが、労働者階級自身のなかにおける権力構造の形成に導かないものは何であれ是認されている。力と暴力の区別は、その役割および動機の性格に全面的にかかっているように思われる。力は鉄鎖を課し、暴力はそれを打破する。力は公然化したものであり隠微なものであれ、奴隷化する。暴力はつねに公然としたものであって、自由にする。これらは道徳的形而上学的概念であって、経験的概念ではない。ソレルはモラリストであって、彼の価値観は最古からの人間的伝統のひとつに深く根ざしている。(略)ルソー、フィフィテ、プルードンフローベールはソレルのもっとも信頼する近代の先行者である。同様に、合理化の破壊者、階級闘争とプロレタリア革命の唱道者としてのマルクスもそうである。だが、社会科学者、歴史的決定論者、政治運動のための綱領作成者、実践的陰謀家としてのマルクスはそうではないのである。(pp.262-263)