Malcolm Lowry

美しいアナベル・リイ (新潮文庫)

美しいアナベル・リイ (新潮文庫)

大江健三郎『美しいアナベル・リイ』*1で、「マルコム・ラウリー」という作家が言及されている;


そうした日々のなかで、おれ*2トロントに撮影の準備に行った。おれとカナダの映画産業とのつながりといえば、新しいのはあれの失敗の原因をなしたやつだけれども、あの場合こちらは損害をこうむった当人だからね。昔なじみの映画関係者たちがおれを慰労してくれた。みんな真面目でね、カナダで出た映画関係の本の話になる。評判になっているものをもらって読んだ。それが面白かったんだ。きみはかなりしばしばラウリーについて書いてきたろう? おれたちが大学の頃、教授の名前で『活火山の下で』を訳したグループを除けば、ラウリーはあまり話題にされないで来たこの国で、きみは小説にそのままラウリーのことを書き込んでる、稀な作家だ。あわせてスコット・フィッツジェラルドについても、駒場できみが『夜はやさし』を抱えて教室に入って来たのをね、脇から抜き取ってムッとさせた記憶がある。
それら二つあいまってさ、この映画の本がきみのことを思い出させた。”The Cinema of Malcolm Lowry”という本だ。ラウリーと、もと女優の夫人マージェリー・ボナーが……この人のことはメキシコの映画界で噂を聞いた、とサクラさんはいう……『夜はやさし』のシナリオを書いている。映画にはならなかったが多様なレヴェルの草稿を集めた研究、A Scholarly Edition of Lowry's 'Tender is the Night'と副題にあるから、おれがいってることの意味はわかるだろう?
ラウリーはあきらかに小説家として、フィッツジェラルドの小説をシナリオ化している。小説家として、だよ。それはいわばね、映画になり上映される『夜はやさし』を、映画館でファンが息を詰めて見つめている……そしてそのまま言葉で再現してみた、そういう書き方のシナリオなんだ。映画のシナリオライターとしてというより、小説家として第一級のラウリーが第一級のラウリーの才能が出ている。それを読みながら、Kenzaburoも、こういう手法でなら書けるだろう、と思った。
おれは映画プロデューサーの玄人だ、そこで正直にいうが、きみは一人前のシナリオライターじゃない。そして、マルカム・ラウリーシナリオライターの玄人じゃない。そうだろう?
(略)
事実として、ラウリーはどうやってるか? いまいったとおり、かれはシナリオを書いていない! フィッツジェラルドの小説を完璧に映画にしたものがあるとして、それをマージェリーと見てる自分。この視点を設定して、その視点で映画を見てゆく、そしてそのまま三人称現在形の小説を書いてるんだ。一般のシナリオに対比してみれば傷だらけだ。無闇に長いト書、カメラへの指示のつもりの詳細な情景描写……つまりラウリー・シネマというほかない、かれの映画の小説を書いてるんだ! Kenzaburo、きみはもうすでに、いったんシナリオを書いた。それが映画になればどういうもののであるか、きみ自身には見えてただろう。それを思い出して書いてもらいたい。小説の玄人として、映画の小説を書いてもらいたい。それをテクストに、サクラさんが自由に映画を撮影する。彼女こそ映画の玄人だ。それはできる。(pp.230-232)

――半年間、きみは働きづめだったわけだが、ポカンと空いた穴ぼこから空を見上げる気分じゃないか? その穴ぼこで何を読んでる?
――きみのくれた”The Cinema of Malcolm Lowry”……あのシナリオは、細部がしみじみよくできていてね、もちろんフィッツジェラルドが細かく書き込んでいるものにそってだが、小説のすべての行を映画のシーンとして読み直す。その手法がジャストミートして、マルカム・ラウリーの代表作といいたいくらいだね。あれをやった後、ラウリーは永年のアルコール依存症にカナダでも苦しんで、それからイギリスに帰還して、やはり酔った上での事故のような自殺をとげたんだが……きみにもらった本のダストカヴァーにね、焦点のゆるいスナップを拡大した写真がある。最盛期の「海の男」の、それも西陽を受けてる肖像というような……そのラウリー「最終の仕事」といえるかも知れない。
――ラウリーが幾らかでも体調を考えて、身体を鍛えていたとすると、映画の仕事だったからだね、まさに「映画の力」だ。(pp.257-258)
さらに最後から2番目のパラグラフで、ラウリーの本の「最後のページ」、「映画のエンディングを細かく指示している、マルカム・ラウリーの手稿」が引用される(pp.259-260)――

突然に、映画の始まりと同じ、夜の空と輝く星々のショットが繰り返される。むしろ再確立される。そして音楽が、二つの働きをする。たちまち高まって、不協和音を発する叫び、恐ろしい苦痛を歌う声。それからこの映画のすべてのシーンにおいてそのように展開氏、解決に至ったかたちで、まだ星々がスクリーンに残る間に、勝ち誇るハーモニーを響かせて、まっすぐ進み出る音楽。
マルカム・ラウリーとカナダについては、Tracy Ware “Clarence Malcolm Lowry”(in The Canadian Encyclopedia)*3で、”Although he was not born in Canada, the years he spent in Dollarton, BC, (1940-54) were the happiest and most productive years of his chaotic life.”と述べられている。
See also


Petri Liukkonen “(Clarence) Malcolm Lowry (1909-1957)” http://www.kirjasto.sci.fi/mlowry.htm
Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Malcolm_Lowry


ウィキペディアの日本語のエントリーがないというのは、木守がいうように、日本では「ラウリーはあまり話題にされないで来た」ということの反映なのか。
ところで、『夜はやさし』は村上春樹によって再発見されたということになっているようだが*4、それ以前に大江健三郎は見出していた?

夜はやさし (上巻) (角川文庫)

夜はやさし (上巻) (角川文庫)

夜はやさし (下巻) (角川文庫)

夜はやさし (下巻) (角川文庫)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120401/1333220131 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120403/1333385004

*2:文中の「おれ」は「木守有」。

*3:http://www.thecanadianencyclopedia.com/articles/clarence-malcolm-lowry

*4:昔角川文庫の帯にそういうようなことが書いてあった。