http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120215/1329328324に関連して。
重森臣広「イギリス自由主義の変容――自助・共助・公助をめぐるせめぎあいから」(『未来』543、2011、pp.33-41)から少しメモ;
社会民主主義は座りが悪い。それは自由民主主義の、というよりは自由主義の派生物という側面をもつ。貧困と困窮、劣悪な公衆衛生と住環境、犯罪や非行――あげればきりがないが、いわゆる「社会問題」が現実と化すにいたった状況のもとで、社会は利己的個人からなる擬制的集合体だなどと悠長なことがもはや言えなくなる。そのとき、自由主義は連帯や共感の養分を摂取し、個人の自由から、自由の平等へと視線を移し、社会的共通善にたいする責務を強調しはじめる。こうして自由主義は変貌していった。
しかし、社会民主主義は社会主義の子でもある。ただし、これは思想や理論としての顔だけでなく、社会主義運動の戦術的バリエーションとしての顔をもつ。資本主義世界の周辺部分では、暴力による権力の奪取と集権的な統治システムの下で、強行的に社会主義化が進められていた。社会主義は資本主義の矛盾を解消するための目標であるよりは、後発地域の経済発展、経済開発の推進力となる。しかし、資本主義世界でも、それなりに発展をとげた地域においては、そこまで強行的な社会主義建設は必要ない。議会政治の制度があれば立法改革を通じた社会主義化が可能だと考えられて当たり前である(集票マシンとしてよく作動する強い労働組合と、それに支持される強い労働者政党があるから)。だから、革命をスキップすることができるし、社会主義化を推進する組織も軍隊的規律にがんじがらめにされる必要はない。リベラルな運動の組織化が可能であり、また望ましい。
では、社会民主主義の対極にあるものは何か。革命的社会主義なのか、それとも自由民主主義なのか。おまけに、二〇世紀も後半に入ると、「ネオ」を冠する自由主義と保守主義が登場し、思想と理論とイデオロギーの地図はますます錯綜する。こうした混沌を前にして、自由民主主義と社会民主主義について論じるのは難しい。(後略)(pp.33-34)