「言語はきわめて自由な翻訳に似ている」(メモ)

ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』(久米博訳)からメモ。


言語はきわめて自由な翻訳に似ている。その翻訳によれば、一般的な意味は、後になってみれば、大体のところは表現されている、といったものである。表現はけっして近似的にしか、忠実であり得ない。大脳局所説、あるいは文法的局所説でおかしいのは、それが正確に規定することである。ことばは、それだけ切り離してみると、何物でもないか、あるいはそれだけですでに完結した観念であるか、である。後者こそ、おそらく概念を潜在的判断の綜合として説明するときに、意味しようとしたことであろう。この意味で、語音類似は例外でなく、まさに規則なのであり、それがわれわれの言語を曲がりくねった、間接的な、両義的なものにしているのである。同義語についてはまだよい。というのは、思考の無数の屈折を表わすのに、そんなたくさんのことばはないからである*1。事実、同義性は近似値にすぎず、それはただ、貧弱で、近視眼的で、簡約化された意味を含んでいるにすぎない。適切にいえば、ある一つのことばは、他のことばと二重、三重に重複することはけっしてない。そのかわり、同音異義性、あるいは多義性は、表現の法則そのものであり、あらゆる誤解の源である。同音異義性は、われわれの無限の豊かさと同時に、絶望的な貧しさを意味している。語彙や身振りをもって、心情の微妙なニュアンスや、尽きざる繊細さに匹敵しようとして、いくら両者を複雑にしても無駄である。われわれの記号とは、いわばレコードのようなものである。それは黒く堅く、艶がある。それでいて、針の下で、あるレコードは『ルイーズ』のアリアを奏で、別のレコードはエリック・サティの『犬のためのフワフワした真の前奏曲』を奏でる。大脳回に言語を「局在させる者」は、ほとんど同音異義語しか見いださないし、言語の象徴に「局在させる者」も、自然のイロニックなことばの洒落に捉えられてしまう。同一の症候、それも同一の症候群が、いろいろ違った病気を意味し得るように、あるいは同じしぐさが、いくつかの感情を表わし得るように、同一のことば(聴覚空間における音響振動、視覚空間における書記記号)は無数の意図した意味作用を実現できる。換言すれば、感覚中枢の基本的な鍵盤を叩く以上に、あるいは記号の一定領域内で可能な組合せがある以上に、意図に含まれる質的な精妙さや複雑さの無限のニュアンスがあるのである。ということは、この貧弱な音階の上では、一群の過大な意図は、それぞれ一対一に対応する記号を見いだせないだろう、ということである。嘘は字義通りであるとともに欺瞞的な一対一の対応に還元させたときに、この困った余分の観念をソフィスト的に利用したものである。嘘は受肉されない意味の、この超過分を戦争のためにとっておく。嘘は、意味と記号とが共通の外延を有しないところから、その巧妙な戦略を引きだすのである。記号は、このきわめて微妙なニュアンスには、粗雑すぎて適合しない……。この意味論的方向づけは複雑すぎて、どんな診断も模索的にし、どんな解釈学をも冒険的にし、どんな予見をも奇蹟的にしてしまう。それは容易ならぬ仕事ではないだろうか。直覚的な識別力または直観を、絶対無謬のアリアドネーと呼ぶことにしよう。このアリアドネーが、近似という、論争を孕み。暗示的で、迷宮のようなこの地帯で、われわれの歩みを導いてくれるのである。(pp.59-61)
また、

(前略)人は理解してもらうためというより、むしろ隠れるために喋るのである。おどろくことに、人はよりよく理解してもらうには、むしろ誤解されねばならない。したがって言語とは、器官である障碍である。言語は遮るとともに通過させる――なぜなら意味は遮られ、縮小されなければ通過できないのであるから。この矛盾は「表現」の全悲劇を要約している。つまり、思考は存在するためには、それ自体を制限しなければならない。(後略)(p.51)

(前略)たしかに、天使の共和国では、ことばが意図を濾過しなくとも、魂は直接に伝達するかもしれない。だが、この形而上学聖霊降臨日までは、言語はこの世ではやむを得ない手段をあらわしており、沈黙は残念ながら黙したままで、雄弁ではないこの世界では、言語はなし得る最上のものである、と認めることにしよう。(後略)(pp.62-63)

(前略)貧弱にして、歪曲するという、言語の二重の裏切りは、われわれの想像力をいやが上でもかき立てる。それはまったく自然発生的で、本能と同じく無謬の文献学(philologie)である。精神は、目に見える文の彼方にあるこの秘密の句読法を補い、修正し、手を入れてから、最後にそれを受け入れる。この句読法と目に見える文との関係は、あたかもピュタゴラス学派の説く、天球の音楽と天体の運行との関係に似ている。「殊更に影の中で、けっして直接ならざる、暗示的なことばによって、等しき沈黙に帰結しつつ、喚起すること」と、このように秘密趣味の祭司、神秘的晦渋趣味の理論家であるステファヌ・マラルメは言い表わしている。(p.63)
ところで、スクリッティ・ポリッティの”Absolute”の一節、

Where the words are worn away we live to love another day
Where the words are hard 'n' fast we talk of nothing new but the past
Where the words are vodka clear forgetfulness has brought us near
を思い出す*2
Cupid & Psyche 85

Cupid & Psyche 85