『コロンブスの犬』からメモ2つ

本屋を覗き、管啓次郎コロンブスの犬』が文庫化されていることを知る。家に帰ってから『コロンブスの犬』(弘文堂、1989)を久しぶりに捲ってみた。「「コロンブスの犬」」という伯剌西爾紀行、「アラバマのチャイナグローヴ」という中篇小説、「対話によるエスノグラフィについて」という論攷が収録されたこの本を読んだのは何時頃だろうか。21世紀に入ってからだというのはたしかなのだが、何年に読んだのかということは思い出せない。
久しぶりにこの本を捲った記念に2つばかり抜書きをしておく。


文学紀行、文学散歩といった旅がある。草枕、歌枕。そんな旅行、からだがむずむずしてくるよって、きみはいうかもしれない。ぼくだってそうだった。でもいま、そのことを考え直しはじめている。それはさまざまな土地をたずね歩いてはその土地にまつわることばの堆積の中から一枚の枯葉をえらびだし、それを新しくみずみずしくよみがえらせようとすること。そんな旅には、単に非難されるべき〈文学趣味〉ばかりではなくて、もう少し本質的な問題がふくまれているような気がする。
どこの土地を訪れたとしても、ぼくらの誰ひとりとしてその土地をありのままに見ることはできない。すでに聞いたこと、読んだことのあることばの記憶にしたがって、ぼくらはひとつの風景を理解しているにすぎない。そうしたすべてによって、だからあらゆる旅は、神話的な旅だ。認識は模倣する。ぼくらはすでに誰かが見たように、ある風景を見ようとする。感情すら引用しようとする。それはまったく、〈悪い文学〉だ。〈悪い文学〉はきみの理解を肩代わりする。そうしたくって、待ちかまえているのだ。その不吉な精霊に戦いを挑むためには、自分が眼にするものをいかに〈理解〉しないままにすませるかを学ばなければならない(それでもなお、体験の直接性を保証するものは何もない。ある人は肉体の危険にそれを求め、加速と弛緩のあいまに死の顔をのぞくことこそ直接性にいたる唯一の道だと考える。一方、ぼくのほうは、直接性を性急に求めるあまりに過去がぼくらにむりやり教えこむ神話を回避する道をえらぶのでは、ゆきつくのは袋小路でしかないと、プログレッシヴな意見をいまのところ支持する)。
ロラン・バルトは「神話作用」の中でこう書いていた。

プティ・ブルジョワとは〈他者〉を想像することができない人間のことだ。他者が自分の人生に現れたとき、プティ・ブルジョワは眼をふさぎ、他者を無視し、否定する。さもなければ他者を自分自身へと作り変えてしまう。
旅行という経験のすべては、〈同化することのできないもの〉を見いだしつづけることにある。理解できないふるまい、食べることのできない料理、音楽のようにしか聞こえないことば、拒絶された共同体を。拒絶を、よろこびとともに受けとめる。それができないかぎりすべての旅はプティ・ブルジョワ的なものでしかないし、愚劣で楽しい観光旅行に転落する。(「「コロンブスの犬」、pp.81-82)

声の複数性を問題にしようとするなら、むしろ注意をはらわなくてはならないのはひとつの主体性にあらかじめつねに書きこまれている複数性のほうではないでしょうか。言語に貫かれて成立しているひとつの主体性は、いくつかの、ときには無数の声を内包している。おそらく幼児における主体性の誕生以前からひきつがれてきたものに加え、日々生誕する無数の断片が、ひしめきあい、ざわめいて、われわれに無数の声をあたえている。〈私〉とはそれらの声のひとつが、あるいは同盟をむすんだいくつかが、ついに代表権を獲得し、私の自己として語りはじめる過程にすぎない。こうしてわれわれの個人を舞台として、ぼくのことばでいえば〈エンド=マイクロポリティクス〉(個人の中に局所化された声の群れのポリティクス)が絶えず上演されつつある。それでもなお、個人というまとまりはかんたんには崩壊しない。それはまさに彼が、周囲の意味環境とのあいだにむすぶ意味のハンモックによってふんわりと支えられているからです。あるいは、彼自身そうしたハンモックそのものとして、環境と接合されている。(後略)(「対話によるエスノグラフィについて」、pp.267-268)