「速度」や「身体性」など

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091212/1260650699http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100104/1262578368に関係する。

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100116/1263641297


雲南に行く直前に読んだ。今頃になって反応。


やねごんのひらがな分かち書きなんだけど、とりあえず本人の言うように馴れの問題はあるとしても、やはり漢字仮名交じり文よりは、読む速度が落ちるものであることは確かなことのように思えるのですにゃ。漢字のような表意文字における読み手の認識の速度の優位性はあるのではにゃーのか。

ひらがな分かち書きに馴れてにゃー人は、さらに読む速度が落ちるでしょうにゃ。で、読む速度が落ちると、どうしてもテキストが身体性を獲得してしまう。


やねごんの文に読みづらいと文句をいってくるヒトの多くは、この身体性にひっかかっているのではにゃーかと僕はヤブニラミしておりますにゃ。

というのも

まさに僕自身が、この身体性にひっかかってやねごんの文を読むにあたって抵抗(=よみにくさ)を感じているからなんだけどにゃ。


あえて失礼なことをいうと、やねごんのひらがな分かち書きの文があまり上達しにゃーのは、この速度の遅さというか身体性というか、そういう部分についてやねごんの親和性が高いからではにゃーかと思ったりしていますにゃ。酒が入っているのでさらに言えば、id:hituzinosanpoとかid:toledとか、ブログでひらがな分かち書きをしているヒトには共通してこの速度感覚というか身体性の感覚があるのではにゃーかと感じていますにゃ。

先ず、ここでいう「身体性」というのがよくわからない。ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代における藝術作品」でいう意味での「アウラ」のことかと思ったが、それとも違うようだ。「アウラ」は寧ろ一回性に関連する。
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

何故「ひらがな分かち書き」が「読みづらい」のか。それは抑も漢字で表記することを前提にしてつくられた語(漢語)が平仮名で書かれており、読む人は自らの脳内で漢字変換をしなければならず、そのための手間と時間がかかるというわけだ。それだけのこと。ただ、以前にも書いたように、「読みづらい」ことは断じて悪いことではない。さらに、エクリチュールは「読みづら」くてなんぼだぜ、と言ってしまってもいい。「地下生活者」氏は「読む速度が落ちる」といっているけれど、それに加えて、言語の持つ線条性(linearity)を破壊するということが重要だろうと思う。話し言葉においては、規定されたシンタックスに基づいて、次から次へと音が流れてくるという線条性がある。書き言葉においても、縦書きの中国語や日本語なら上→下、羅馬字なら左→右、アラビア文字なら右→左というふうに、言葉は一方向的に流れ、読者もその方向性に沿って読んでいくことになる。「ひらがな分かち書き」というのはその線条性を堰き止め、読者の注意をひとまずUターンさせ、結果として「読む速度」を落とす作用をする。勿論、「読む速度」を落とすための仕掛けはほかにも沢山あるだろう。「読む速度が落ちる」こと、これは読者の言葉(或いは記号)への注目時間を長引かせることだ。これはコピーライターにとっては当たり前のことなのだろう。この人たちは広告のコピーの字面に1秒でも長く注目させることに生活をかけているわけだから。
さて、「デリダの「音声中心主義批判[批判]」というのはこの身体性のことではにゃーかと読みもせずに勝手に思っているんだけどにゃー」。これについては、コメント欄の「普通、デリダのロゴス中心主義は、シニフィアンに優越するシニフィエを措定することで必然的に生ずるところのシニフィエに意味を与える超越論的シニフィエ、即ち「規約された公理系」に対する論駁と理解されています」というthe_end-of_the-worldという人*1の意見*2が正しいように思える。デリダのグラマトロジーというかパロール中心主義批判(Of Grammatology)というのは、『声と現象』におけるフッサール『論理学研究』批判と密接に関係しているものであり、フッサールデリダ問題、「現前の形而上学」批判の文脈で理解されるべきだろう。この問題については、現象学的還元の延長に「グラマトロジー的還元」を設定するJohn D. Caputo神父の”The Economy of Signs in Husserl and Derrida: From Uselessness to Full Employment”(in John Sallis [ed.] Deconstruction and Philosophy, pp.99-113)をマークしておく。
Of Grammatology

Of Grammatology

声と現象―フッサール現象学における記号の問題への序論

声と現象―フッサール現象学における記号の問題への序論

Deconstruction and Philosophy: The Texts of Jacques Derrida

Deconstruction and Philosophy: The Texts of Jacques Derrida

漢字文化圏には、「音声中心主義」などというものはにゃーような気がしますにゃ」。先ず純粋な表意文字というのはアラビア数字しかない*3。漢字は一貫して表音文字で(も)あった。漢語(の諸方言)において、漢字は常に或る特定の音と結びついている。日という字はマンダリンではri、広東語ではyatという音を指し示しており、ilという音、hiという音とは結びつかない。また、漢字には古くから同音相通、音が同じであれば意味も類似してくるという観念があったし、昔は皇帝の在位中には皇帝の名前に使われている字の使用を憚らなければならないという規範があって、そういう場合には同じ音の字を表音文字として使わなければならなかった。漢字が音声から独立しているように見えるのは、漢字が漢語を超えて東亜細亜におけるグローバル・スタンダードとして使用されたこと、また日本語において訓読みが発明されたという事情によるものだ。また、どんな文字でも、仮令表音文字であっても、文字というのは常に言語記号であると同時にグラフィックであるという両義性を持つということはいうまでもない*4。序でに、(デリダがいう意味ではない)「音声中心主義」について言えば、生物学的に言っても、人間の言語機能と発声機能の間に必然的・本質的な結びつきはないようだ(Cf. 酒井邦嘉『言語の脳科学』)。「地下生活者」氏の「詩」論については、日を改めてまたコメントしたい。