企業としての社会?

「妄想上のネオリベラリズムhttp://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20111123/1322058697


曰く、


私のイメージしていたリベラリズムとは、人々の価値観が多元的であることを前提として、それらが共存できるゆるい枠組みを微調整しながら維持していくという、すこぶる保守的な自由主義である。ところが、どうやらネオリベラリズムは経済活動の自由以外の自由は斬り捨ててかまわないとする排他的な価値一元主義のようだ。これは保守的な私にはまともなバランス感覚を欠いた偏狭な態度であるように感じられる。

彼らは、競争原理を強調し、弱肉強食を是とする以上、最大多数の最大幸福ではなく、最小少数の最大幸福を目ざさざるを得ないから、鋭角ピラミッド型の階級社会を理想としているわけだ。ただ、近代以前の階級制度が血統や名誉なども重視して組み立てられていたのに対して、ネオリベラルな階級社会は資産が基準になっているだけだ。

議論による調整よりも法令によって画一的な解決をはかりたがる傾向もネオリベの特徴であるが、これも排他的な一元主義から導き出される態度とみれば不思議はない。また、国家主義と親和的であるのもうなずける。

新自由主義が一種の〈原理主義〉だとすると、自らを純化しようとするだけでなく、自らの〈原理〉を社会の他のセクター、さらには社会全体に輸出しようとする傾向があるといえる。企業が市場において市場主義的に振る舞うのは理の当然であって、そうしなければ阿呆である。しかし、新自由主義者は〈市場原理〉は経済だけでなく、政治や教育、さらにはプライヴェートな人間関係にまで貫徹させようとする。別の側面からいうと、新自由主義においては企業組織をモデルとして社会が想像されることになる。また、社会行為は企業経営をモデルとして。(これは新自由主義以前の話だけれど)既に政治は経済に呑み込まれており*1、政治家の理想はワンマン経営者、特にブラック企業の経営者ということになってしまったらしい*2。そういうことを念頭におけば、上に引いたことどもには殆ど不思議はなくなることになる。「排他的な一元主義」というのはそういうことだろう。「鋭角ピラミッド型の階級社会」というのも企業というのはそもそもが社長→重役→部長→課長→係長→ヒラという縦型のヒエラルキー組織である。それが全社会化されるということだろう。
近代社会において企業と並ぶヒエラルキー組織は軍隊だろう。左翼の方は、特に20世紀に入ってから、軍隊をモデルに社会を想像する傾向を強めた(Cf. 桜井哲夫社会主義の終焉』*3。また竹内実『毛沢東中国共産党』も参照のこと)。左翼の方でも過去のミリタリズムを清算するという課題があるわけだが、日本の場合、経済が軍事モデルで語られる傾向も強かったわけだ。〈企業戦士〉とか。
社会主義の終焉―マルクス主義と現代 (講談社学術文庫)

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毛沢東と中国共産党 (中公新書 282)

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