分母がなければ意味がない

呉智英*1「Fラン大学で「8画以上の漢字が書けぬ学生がクラスに2人」」http://blogos.com/article/305156/


先ず本文は全体として間違っていない。経済的格差は、名門の中高一貫校に子どもをやれるかどうかということから、教養の格差、知的格差に翻訳され、世代間で再生産される。これが「古典的な階級社会とは違う階級社会」である、と。
まあそれはいいのだけれど、「思考力ある支配層」の対極として、「Fランクの大学」のことが言及されている。曰く、「私が教えたことのあるFランクの大学では、八画以上の漢字が書けない学生がクラスに二人いた」。これは編集者もショックを受けたらしく、タイトルにも使っている。でも考えてみれば、「クラスに二人いた」というのは分母つまり「クラス」の人数がわからなくては殆ど意味をなさないのだった。100人のうちの2人というのと50人のうちの2人というのと10人のうちの2人というのでは、全然感じが違う。全二者だったら、事態はそんな深刻ではないというか、殆どの者はちゃんと「八画以上の漢字が書け」るわけだから、まあ優秀なんじゃないのと解釈することも可能だ。10人のうちの2人ということになると、ちょっと敏感な人ならやばい! と感じるだろう。さらに、5人のうち2人になると、超やばい! こういう数学以前ともいえる数字に対する敏感性(鈍感性)は「古典的な階級社会とは違う階級社会」と関係があるのかどうか。
さて、「階級社会」というのはそもそもそういうものだったともいえるのではないだろうか。かつては、多くの社会において、教養の多寡どころか、識字者/文盲という線が引かれていたわけだ。呉氏の言葉に添って述べれば、境界線は、「八画以上の漢字が書け」る/書けないではなく、「漢字」そのものの読み書きができる/できない、或いは平仮名の読み書きができる/できない、だったわけだ。「階級社会」或いはハイアラーキー社会が知的格差を伴うものだということは、左右のポピュリズムの多くが反知性主義を旨としていることにも窺えるだろう。これまでは、それが普通教育を含む福祉国家的政策によって、一応緩和されていたということだろう。