「独創人」と「独身者」(メモ)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

承前*1

ジル・ドゥルーズバートルビー、または決まり文句」(『批評と臨床』、pp.146-189)の続き。前回言及したドゥルーズの論は「独創人」と「独身者」という概念を前提としている。
「独創人」について;


(前略)真の〈独創人〔奇人〕〉を、たんに目立ったり、奇抜だったり、特徴的だったりする人物と混同するなど言語道断だとメルヴィルは述べる。小説にはよく出てきがちな特徴的な人物の場合、人格によって体型が決まり、持ち物によってイメージが形成される。つまり、環境の影響を受けているのであり、人物どうしで影響もあたえあっていて、その結果、彼らの行為や反応は、毎回、特別の価値を保ちはするものの、一般法則に従う。同様に、彼らが口にする言葉は彼らに固有のものだが、言語の一般法則に従ってもいる。独創人はその正反対であり、原初の神を除いて本当に実在するのかどうかすら定かではなく、一人でも出会えば、それだけで御の字である。一つの小説に何人も出てくるなどということがどうして起こりうるのかわからない、とメルヴィルは言い放つ。独創人は、一人ひとりが孤独で力強い〈図形(figure)〔人物〕〉であり、説明可能ないかなる形態からも洩れ落ちてしまう。独創人は燃えるような表現特徴線(trait d'expression)を投げつけ、それはイメージなき思想、答えなき質問、極端で合理性を欠いた論理の執拗さを刻み込む。生と知の図形である彼らは、言葉にできない何かを知っていて、計りしれない何かを生きている。バートルビーには特別なところも、一般的なとこえおもまったくない。〈独創人〉なのだ。彼らは知識を脱し、心理を脱するのだ。彼らが口にする単語さえもが、言語(langue)の一般法則(「前提」)から、そして言葉(parole)のたんなる特性からもはみ出るが、それというのも、単語は比類なく、根源的な独創的言語の眩暈ないし投射のごときものであり、言語活動の全体を沈黙や音楽との境界にまで至らせるからだ。彼らには一般的なところなど何もなく、特別でもない。(pp.173-174)
また、

独創人たちは根源的〈本性〉の存在だが、彼らは世界や副次的本性から切り離されるわけではなく、そこにおいて自分たちの効果を発揮する。つまり、世界や副次的本性の空虚をあらわにし、法の不完全さ、個別の人間の平凡さ、仮装行列(それはムージルが「平行運動」と呼ぶものだ)にすぎない世界を白日のもとにさらす。予言者は独創人ではないが、それだけに彼らの役割は、世界における独創人の軌跡を認識し、独創人が世界に及ぼしたいわく言いがたい混乱を確認する唯一の存在であるということだ。メルヴィルによれば、独創人は環境の影響を受けず、逆に、周囲にむけて、「創世記において物事のはじまりを照らしていた」明かりを思わせる青白い光を投げかけるのである。(後略)(p.174)
さらに、ジャン=リュック・ゴダールやフランシス・ベイコンの名が言及されるのだが、その後にドゥルーズは、

彼が沈黙を破って『ビリー・バッド』を書いたのは、この小説が、ヴェア船長の鋭いまなざしのもとに、二人の独創人、悪魔的な人物と石化した人物を登場せしめたからだ。だが、この二人を物語の筋によって結びつけるといったことでは、ただ一方を他方の犠牲者にするだけにすぎず、いかにも安易で、取るに足らない結果しかもたらさないのであるから、そうではなく、二人をひとつの場面〔絵画〕で両立させるのが大切なのだ(後略)(p.175)
「二人の独創人を和解させること」という問題(ibid.)。そこから「独身者」という問題系が出てくる。
ビリー・バッド (岩波文庫 赤 308-4)

ビリー・バッド (岩波文庫 赤 308-4)


(前略)もし人間が救われ、独創人どうしが和解するとすれば、それは溶解においてしか、つまり父親的機能の解体においてしかありえない。したがって、エイハブが、セント=エルモの火を引き合いに出しつつ、父親自身も迷える息子、孤児であり、一方、息子はなにものの息子でもない、というか、あらゆるものの息子であり、兄弟であると発見する瞬間は偉大なのである。のちにジョイスが述べるように、父性など存在せず、ただ空虚が、虚無があるだけで、それはむしろ、兄弟たち、兄弟と姉妹が出没する不確定性の領域なのだ。慈悲深い父親の仮面などとれてしまい、その結果、根源的〈本性〉が鎮撫され、エイハブとバートルビー、クラガートとビリー・バッドが和解して、彼らの実らせる果実、つまり純粋で単純な友愛的関係が、一方の暴力ともう一方の呆然自失状態のうちに現れてこなければならない。メルヴィルは、キリスト教的な「慈悲」や父性的「博愛」に対する友愛の根本的対立を激化させつづけるだろう。人間を父親的機能から解放し、新しい人間ないし特性なき人間を結びつけて、新たなる普遍としての兄弟社会を構成するのだ。なぜなら、兄弟社会においては、親子関係に同盟関係が、血族関係に血の契りが取って代わるからだ。男は実際に他の人間と血でつながる兄弟であり、女も血でつながる姉妹である。メルヴィルに従えば、それは独身者の共同体なのであり、その構成員を無制限の生成変化へと導く。ある兄弟であり、ある姉妹なのだが、誰かの兄弟、誰かの姉妹ではなく、いかなる「属性」も消え去っているだけに、より真実に近づいている。愛よりも深い燃えるような情熱が問題になっているのだが、それというのも、実質や属性をもはや欠いてしまい、識別不可能性の領域を示し、その中でありとあらゆる強度をすべての方向に駆けめぐり、兄弟どうしの同性愛的関係にまで発展し、兄弟と姉妹のあいだの近親相姦的関係を経ていくからだ。これはきわめて神秘的な関係であり、ピエールとイザベルを押し流していく関係、『嵐が丘*2ヒースクリフとキャサリンが引きずりこまれる関係であって、各人が交互にエイハブになったり、モービィ・ディックになったりする。「わたしたちの魂が何でできているにせよ、彼の魂とわたしの魂は同類です……。彼に対するわたしの愛情は地下に永遠に埋められた岩に似ていて、眼に見える喜びはほとんどもたらさないけれど、必要なの……。わたしはヒースクリフです! 彼はわたしの心にいつも存在している。でもそれは、わたしがわたしにとっていつも快楽でないのと同じで、快楽としてあるのではなく、わたし自身の存在そのものとしてあるのです……」。(pp.176-177)
Moby Dick

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Wuthering Heights

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