あっと驚く

といいつつも、為五郎(ハナ肇)はとうの昔に他界しているけれど。
スポーツニッポン』の記事;


前田武彦さん急死…巨泉とテレビ黄金時代築く


 「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」「夜のヒットスタジオ」の司会で知られ、「マエタケ」の愛称で親しまれたタレントの前田武彦(まえだ・たけひこ)さんが5日午前11時16分、肺炎のため都内の病院で死去した。82歳。東京都出身。59回目の結婚記念日だった先月28日に、突然体調を崩し入院。同日夜から一度も目覚めることなく息を引き取った。通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれ、後日、お別れの会が開かれる予定。

 前田さんはこの日午後5時42分、ストレッチャーに乗せられ無言で都内の自宅に戻った。午後6時すぎ、自宅前で会見した長男・塁(るい)さん(52)によると、先月28日、朝から体調不良を訴えて入院。検査で腸閉塞(へいそく)が見つかり、それによる脱水症状で腎臓、肺などの機能が低下。点滴などの治療を行ったが、昏睡(こんすい)状態に陥った。

 4日には血圧や心拍数などの数値が安定したものの、5日に容体が急変。塁さんの呼びかけに一度「あ、あ」と応えただけで、家族にみとられ息を引き取った。

 20年ほど前から糖尿病を患っていたが、所属事務所の関係者は「入院するまで、こちらが驚くほど元気だったのに」とぼう然と話した。

 入院した28日は59回目の結婚記念日。2歳年上の妻・嘉子さんは60回目を迎えるのをとても楽しみにしており、「お互いいちずに思い合っていただけに、相当ショックを受けている」(塁さん)という。塁さんは「父は海に行くのが好きで、ヨットや釣りでストレスを解消していた。よく一緒に連れて行ってもらった。家族思いで、いい意味で仕事人間ではなかった」と声を絞り出した。

 前田さんは立教大学中退後の53年、テレビ開局直後のNHKの「こどもの時間」の放送作家として“テレビマン人生”をスタート。61年に始まった日本テレビシャボン玉ホリデー」の脚本を手がけ、故青島幸男さんや永六輔氏(78)ら放送作家と親交を深めた。

 60年代後半からはタレント業に進出。68年スタートで芳村真理(76)とコンビを組んだフジテレビ「夜のヒットスタジオ」、コント55号が出演した「お昼のゴールデンショー」で初代司会。翌年スタートで大橋巨泉(77)と共演した日本テレビ「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」では高視聴率を記録。痛快な毒舌で今日のバラエティー番組の基礎を築いた。日本テレビ笑点」の司会にも抜てきされ、草創期のテレビ界で暴れ回った。

 一方、73年には生放送の「夜のヒットスタジオ」のエンディングで、参院選補選で当選した共産党候補者に向けて万歳のポーズ。電波を私物化しているとの批判を受け、同番組ばかりか、ほかの出演番組からも降板させられた。背景には戦時中の悲惨な体験があったと言われている。80年代中ごろに復帰した後は俳優業にも乗り出した。

 最後の仕事は先月16日、永氏がパーソナリティーを務めるTBS「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」へのゲスト出演。6日放送の同番組出演も決まっており、事務所関係者によると「とても楽しみにしていた」という。

  ◆前田武彦(まえだ・たけひこ)本名同じ。1929年(昭4)4月3日、東京都生まれ。太平洋戦争中に海軍予科練に1年半在籍。NHKの放送作家として「宇宙船シリカ」「はてな劇場」などの台本を手掛けた。フジ「ゴールデン洋画劇場」の初代解説者も務めた。その後、第一線から退くが、84年にTBS「朝のホットライン」にお天気キャスターとしてカムバック。映画「釣りバカ日誌」シリーズなどに出演した。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/08/06/kiji/K20110806001356400.html

記事では言及されていないが、鎌倉アカデミアの学生だったことの影響は大きかったのではないかと思う。鎌倉(のちに大船)にあったこの学校は戦後理想主義・啓蒙主義の最初の挫折としてもっと語られ・論じられるべきだとは思う(Cf. 前川清治『三枝博音鎌倉アカデミア』 )。ところで、『ゲバゲバ』が「今日のバラエティー番組の基礎を築いた」というのはどうなのだろうか。寧ろその栄光は直ぐに忘却されてしまったのではないか。そうでなければ、その数年後に「モンティ・パイソン」*1が紹介されたとき、みんなそれほど驚くことはなかった筈なのだが。